日々是口実~引っ越し版~

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木瀬と式秀

2010-05-29 23:54:45 | 大相撲
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先日の記事で、年寄名跡の「木瀬」は「木村瀬平」の通称である事を少々書いた。

まずは木瀬。「木村」ということで、もともとは行司の名前であることはお察しの通り。

この木村瀬平の初代は、宝暦13年(1763)に年寄として名前が残っているという。

といっても、相撲関係の資料は宝暦以前の資料は乏しく、江戸相撲の最古の番付でも宝暦3年(1753)のものなので、便宜上この辺りからが現在の「元」になっている。

モノの本によると木村瀬平の家系は、織田信長の上覧相撲で行司を務めた「木瀬太郎太夫」までさかのぼるということで、相当歴史のある名前であることがわかる。

現木瀬は元肥後ノ海だが、先代の木瀬は、秋田出身の清の盛が2000年まで部屋を運営していたので、なんとなく親しみ(系統は別になったが)がある部屋だった。

今年からは大館出身の佐々木山が入門し、秋田との繋がりが復活したので喜ばしく思っていたのだが、あのような結果になって残念である。


もう一つある行司の年寄名跡が「式秀」の「式守秀五郎」。

式秀の初代は、安永年間(1772~81)の行司式守秀五郎。

この名前は、代々伊勢ノ海系列の名前だったらしく、4代式秀の有明吾郎までが伊勢ノ海部屋、5代目の有明五郎からは錦嶋部屋に移っている。

錦嶋部屋は部屋を興した大蛇潟大五郎こそ千葉の出身だが、それ以降の8代錦嶋(大蛇潟粂蔵 能代市出身)、9代錦嶋(大蛇山 羽後町出身)の親方と大関能代潟(藤里町出身)と秋田とも非常に繋がりがあった。

話を戻して、伊勢ノ海から錦嶋に移った理由は同じ系統だったからなのではないだろうか。

横綱柏戸剛の師匠である、10代伊勢ノ海の柏戸秀剛が現役の頃、伊勢ノ海部屋は師匠の死によって、一旦部屋が消滅。

柏戸秀剛は錦嶋部屋へ預けられていた。そこから考えると親戚筋と考えることが出来る。

現在の伊勢ノ海部屋は「時津風一門」に属しているが、かつての「一門系統別部屋総当り制」時代には、時津風部屋の力士との対戦があったので別系統だった。

その後、錦嶋系が時津風部屋に吸収され、6代目の式秀からは時津風一門の名跡になる。

その「時津風一門」に、元の持ち主の伊勢ノ海が合流と不思議な縁を感じる。

現在は元小結の大潮が、8代目式秀親方として部屋を運営している。

木瀬と式秀は代々「フルネーム」で継承されている、珍しい名跡でもある。

こうやって、一門の変遷を辿ることも結構面白いものです。


写真は先代の木瀬親方の「清の盛」。今回の騒動をどう思っているのだろうか。