今回は、私の田舎(というか実家)にほど近い熊野神社、美里天文台を紹介しましょう。
阪和高速道路海南東インターから高野山へ向いて国道371号線沿い約1時間程度のところ、紀美野町(旧美里町)田というところにあります。熊野神社も美里天文台も国道から、少し山側に登って(車道)行かなければなりません。
直接車で行けますが、昔はこの石段を登ってました。
今はセミナーハウスに変わってますが、小学校への道のりでした。何段あるか数えたりしましたが、忘れてしましました。
石段を登りきると、境内です。
熊野神社内にある巨木(杉)は、樹齢1000年近かったように記憶してます。
この熊野神社は、征夷大将軍であった坂上田村麻呂にゆかりのある神社です。神社の左側に、県指定文化財である、”国吉熊野神社石造宝筺印塔”があります。
隣に(坂上田村麻呂記念塔と記載)の言われが書かれてます。
「坂上田村麻呂はこの地で三年の間に村人から敬愛され親しまれた。いよいよ東北征定の命を受け、この地を離れるに当って田村麻呂が、その戦勝を祈願して建てたのがこの石塔であるといわれる。
また村人が田村麻呂を追慕し偉大なる武将が三年間この地ですごしたことを記念し、その武勲を祈念して建てたものでもあると伝えられている。
今の県道沿いのにあったものを田村麻呂ゆかりの当神社に移したものであることは石塔の造り(土台石はこの神社裏に出る自然石である)からも推察される。」
また、石段を登りきる直前には、第四代となる”将軍桜”が植わってます。久々に行ったのですが、昔は立派な木(三代目)で、見事な桜が咲き誇ってのを記憶してます。
将軍ざくらの沿革より
「今から1200年前、後の征夷大将軍 坂上田村麻呂が若き頃、ことあって官を辞し、紀州に隠道の地を求めて奈良路より紀ノ川べりを下り、更に貴志川に沿って道を折り丸栖の地に身を寄せた。たまたま貴志川の上流より弓の矢に好適の片面竹が流れてくるのを見てその産地を求め、貴志川を上り、遂に今の国吉滝の川口にその笹のあるのを見つけた。
それから三年間田村麻呂はこの地で人々の信望を集め自由な日々をおくったといわれている。
菅沢(かじか荘のある地)から下流二キロメートルにわたって冷泉が湧き出し田村麻呂の身を休めるのに恰好の地であった。
また若き武将はいろいろの恋物語をも生んだ。そして某女との間に子までなし再び都へ帰るに当って、熊野神社を勧請し、その子孫が今もなおこの社の宮司をつとめている。
将軍坂上田村麻呂がこの地の思い出に植えたのがこの将軍ざくらであると言われ、三代四代とそのさくらは村人によって植えつがれこの第四代将軍ざくらは春毎に他のさくらと異なった気品のある花をつけ、人々の田村麻呂への思慕を呼びさますのである。」
この熊野神社では、毎年秋にお祭りがあります。
天狗が4人(人というのか?)と獅子舞が2匹(匹でいいのか?)、お囃子に乗って踊ります。悪さをする獅子を4人の天狗がやっつけたという内容だったと小さい頃に聞かされたような・・・ちゃんと歴史など勉強せねば
境内撮影日と祭り撮影日は異なってますが、祭りの日は大雨で、祭りの歴史上初めて離れた場所の体育館での開催となりました。例年は、境内で行われ敷地内を天狗と獅子舞が跋扈します。小さいころは怖くて逃げまくってました。
逃げても追っかけてくるので注意が必要です
小さい頃は父親とかが天狗役になってました。今回お邪魔した時は、先輩や後輩がやってました(ありがとうございます)。
<天狗の長>
<赤天狗>
<緑天狗>この天狗の顔が一番怖かったです。
<獅子舞と戦う天狗の舞>
<だんじり>
ちなみに、だんじりの上の松は、実家の父親が程よい
松枝をとってきて飾ったものです。なかなか、いい松が
ないそうです。
熊野神社の隣には、高野長峯霊場八番札所「惣福寺」があります(本尊は千手観世音菩薩)。
小学生時代には、この境内でもよく遊んだものです。
寺の左隣には、りっぱな無患子(ムクロジ)の木が植わってます。小さいころからありました。
熊野境内から石段を降りた途中に、都道府県指定天然記念物に指定されている、”熊野神社のしらかしの老大樹群”が植わってます。
ここから暫く登ったところの山の上に、美里天文台があります。何年か前には、日本一の民間天文台として全国放送で紹介されてました。今は7位か8位位だとか・・・。
ここの場所は和歌山県朝日夕陽百選にも選ばれてます!
天文台からの景色もよく、木花も綺麗です。
紀美野町にお越しの際は、歴史探索、景色を堪能してください。
宿も、近所に”かじか荘””だるま温泉”等々ありますので。
ちなみに私は観光関連の仕事ではありませんので・・・
阪和高速道路海南東インターから高野山へ向いて国道371号線沿い約1時間程度のところ、紀美野町(旧美里町)田というところにあります。熊野神社も美里天文台も国道から、少し山側に登って(車道)行かなければなりません。
直接車で行けますが、昔はこの石段を登ってました。
今はセミナーハウスに変わってますが、小学校への道のりでした。何段あるか数えたりしましたが、忘れてしましました。
石段を登りきると、境内です。
熊野神社内にある巨木(杉)は、樹齢1000年近かったように記憶してます。
この熊野神社は、征夷大将軍であった坂上田村麻呂にゆかりのある神社です。神社の左側に、県指定文化財である、”国吉熊野神社石造宝筺印塔”があります。
隣に(坂上田村麻呂記念塔と記載)の言われが書かれてます。
「坂上田村麻呂はこの地で三年の間に村人から敬愛され親しまれた。いよいよ東北征定の命を受け、この地を離れるに当って田村麻呂が、その戦勝を祈願して建てたのがこの石塔であるといわれる。
また村人が田村麻呂を追慕し偉大なる武将が三年間この地ですごしたことを記念し、その武勲を祈念して建てたものでもあると伝えられている。
今の県道沿いのにあったものを田村麻呂ゆかりの当神社に移したものであることは石塔の造り(土台石はこの神社裏に出る自然石である)からも推察される。」
また、石段を登りきる直前には、第四代となる”将軍桜”が植わってます。久々に行ったのですが、昔は立派な木(三代目)で、見事な桜が咲き誇ってのを記憶してます。
将軍ざくらの沿革より
「今から1200年前、後の征夷大将軍 坂上田村麻呂が若き頃、ことあって官を辞し、紀州に隠道の地を求めて奈良路より紀ノ川べりを下り、更に貴志川に沿って道を折り丸栖の地に身を寄せた。たまたま貴志川の上流より弓の矢に好適の片面竹が流れてくるのを見てその産地を求め、貴志川を上り、遂に今の国吉滝の川口にその笹のあるのを見つけた。
それから三年間田村麻呂はこの地で人々の信望を集め自由な日々をおくったといわれている。
菅沢(かじか荘のある地)から下流二キロメートルにわたって冷泉が湧き出し田村麻呂の身を休めるのに恰好の地であった。
また若き武将はいろいろの恋物語をも生んだ。そして某女との間に子までなし再び都へ帰るに当って、熊野神社を勧請し、その子孫が今もなおこの社の宮司をつとめている。
将軍坂上田村麻呂がこの地の思い出に植えたのがこの将軍ざくらであると言われ、三代四代とそのさくらは村人によって植えつがれこの第四代将軍ざくらは春毎に他のさくらと異なった気品のある花をつけ、人々の田村麻呂への思慕を呼びさますのである。」
この熊野神社では、毎年秋にお祭りがあります。
天狗が4人(人というのか?)と獅子舞が2匹(匹でいいのか?)、お囃子に乗って踊ります。悪さをする獅子を4人の天狗がやっつけたという内容だったと小さい頃に聞かされたような・・・ちゃんと歴史など勉強せねば
境内撮影日と祭り撮影日は異なってますが、祭りの日は大雨で、祭りの歴史上初めて離れた場所の体育館での開催となりました。例年は、境内で行われ敷地内を天狗と獅子舞が跋扈します。小さいころは怖くて逃げまくってました。
逃げても追っかけてくるので注意が必要です
小さい頃は父親とかが天狗役になってました。今回お邪魔した時は、先輩や後輩がやってました(ありがとうございます)。
<天狗の長>
<赤天狗>
<緑天狗>この天狗の顔が一番怖かったです。
<獅子舞と戦う天狗の舞>
<だんじり>
ちなみに、だんじりの上の松は、実家の父親が程よい
松枝をとってきて飾ったものです。なかなか、いい松が
ないそうです。
熊野神社の隣には、高野長峯霊場八番札所「惣福寺」があります(本尊は千手観世音菩薩)。
小学生時代には、この境内でもよく遊んだものです。
寺の左隣には、りっぱな無患子(ムクロジ)の木が植わってます。小さいころからありました。
熊野境内から石段を降りた途中に、都道府県指定天然記念物に指定されている、”熊野神社のしらかしの老大樹群”が植わってます。
ここから暫く登ったところの山の上に、美里天文台があります。何年か前には、日本一の民間天文台として全国放送で紹介されてました。今は7位か8位位だとか・・・。
ここの場所は和歌山県朝日夕陽百選にも選ばれてます!
天文台からの景色もよく、木花も綺麗です。
紀美野町にお越しの際は、歴史探索、景色を堪能してください。
宿も、近所に”かじか荘””だるま温泉”等々ありますので。
ちなみに私は観光関連の仕事ではありませんので・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます