我が家にはトイレが2箇所あり、そのうちの1箇所には小便器がある。前の家でもそうだった。
これは実は自慢の一つ。
設置したのは、もちろん、男にとって使いやすいという理由があるのだが、家の中で男の存在感を表すシンボルとしての意味合いもある。
男の知人・友人が初めて我が家に訪れた時は、「トイレに入ってくれないかなあ」なんて思ったりする。
わかる人は「むむっ」と思ってくれるはずだ。
ほとんどの家の中には、女性のためだけに存在するモノがずっと保持されている。かたや、男性のためにのみ存在するモノはなくなった。前者はドレッサー(鏡台)であり、後者は小便器だ。小便器だけが急速な勢いで姿を消している。設置を望むことにだって少しは理があるのだ。
観念的と言われれば、それまでかもしれないが、家の中で父親の存在が軽視されてきたことと、小便器を設置しなくなってきたことは相関があるように思っている。
しかし、いまや、父親の存在感がなんで必要なの?と言われるくらいどうでもいい存在にされてしまっている。「絶滅危惧種を絶やさない」くらいの意気込みを持たないと、「家庭内小便器」を守れないかもしれない。
上記のような理屈を語ることなく小便器の設置を承諾してくれた妻と母には感謝している。勝手かもしれないが、私の中では、小便器を自慢することは妻と母を自慢することにつながっている。
これは実は自慢の一つ。
設置したのは、もちろん、男にとって使いやすいという理由があるのだが、家の中で男の存在感を表すシンボルとしての意味合いもある。
男の知人・友人が初めて我が家に訪れた時は、「トイレに入ってくれないかなあ」なんて思ったりする。
わかる人は「むむっ」と思ってくれるはずだ。
ほとんどの家の中には、女性のためだけに存在するモノがずっと保持されている。かたや、男性のためにのみ存在するモノはなくなった。前者はドレッサー(鏡台)であり、後者は小便器だ。小便器だけが急速な勢いで姿を消している。設置を望むことにだって少しは理があるのだ。
観念的と言われれば、それまでかもしれないが、家の中で父親の存在が軽視されてきたことと、小便器を設置しなくなってきたことは相関があるように思っている。
しかし、いまや、父親の存在感がなんで必要なの?と言われるくらいどうでもいい存在にされてしまっている。「絶滅危惧種を絶やさない」くらいの意気込みを持たないと、「家庭内小便器」を守れないかもしれない。
上記のような理屈を語ることなく小便器の設置を承諾してくれた妻と母には感謝している。勝手かもしれないが、私の中では、小便器を自慢することは妻と母を自慢することにつながっている。