谷中M類栖のエントリ「らしさについて」にTB。
谷中M類栖のエントリは建築プロデューサーの朝妻さんのエントリ「石川淳氏 設計の家 見てきました。」へのTBエントリであり、朝妻さんがそれを受けて「“ らしい ” 家について ちょっと思ったこと」というエントリを立てたので、そちらにもTB。
m-louisさんは、「(建築家の)石川さんらしい家」との評に納得しつつ、
>施主という観点でみるとどうなるのだろう
と投げかけている。
これに対し朝妻さんは、想像としつつ、石川さんという建築家の作風が自分達にあうと判断して依頼したのだから、
>「石川さんらしい家」であると同時に「施主らしい家」なのではないだろうか。
としている。
このやりとりで少し考えてみた。
「らしさ」とはあいまいな言葉だ。
m-louisさんがいう「らしさ」は、住宅の設計にどのくらい施主の好みやセンスが関与しているかということを気にかけた視点だと思う。それはいわば施主の関わり具合の濃さと比例する「らしさ」である。
かたや、朝妻さんのいう「らしさ」は、一場面でも成り立つ「らしさ」であろう。選択したこと自体に施主の「らしさ」は生じているという判断である。
朝妻さんのいうことはもっともなのだが、「らしさ」の捉え方がざっくりしている。
例えば、「絶対ハウスメーカーの家でなければダメだ」という施主も、それはその施主の考えが思いっきり表に出ているのだから、その施主「らしい」という説明を成り立たせることができる。私の例でいえば、建築家個人を決定する段階での「らしさ」以前に、ハウスメーカーでなく建築家・設計事務所というカテゴリを選択した段階で「garaikaらしい」などと人に言われたりもしている。つまり、なにがしかの施主「らしさ」は家づくりの入口の段階から必ず生じる。
朝妻さんのいう「らしさ」は確かにあるが、それは入口に近い大きな分岐点での選択そのものだ。
しかし、m-louisさんの気にする「らしさ」とは、くぐる入口を選んで以降、施主のテイストが外観や内観、間取りなどに反映されているのだろうかという具体論なのだ。「らしい」という評価の背景にあるものが微妙に違う。
以前私は、「主導権」というエントリで施主がプロにどのように家づくりをゆだねるかということに言及した。「ゆだね方」によって、選択肢は違ってくるだろうと。
そして建築家に依頼するという範疇の中においても、「ゆだね方」が施主の違いを生じさせるのではないだろうか。施主が建築家にほとんどまかせっきりにして設計してもらえば、外観、内観などに具体的な施主らしさは現れにくいだろう。しかし、施主が口を挟めば挟むほどその施主のテイストが家の造形ににじみ出てくるのではないか。例えばノアノアさんの家の外壁の「ビードロ」などは、はっきりとノアノアさんの主張によってノアノアさんらしさをかもし出しているのがわかる。
自分の家に自分らしさが出ているか懐疑的なm-louisさんにしたって、少なくとも「光庭」ではm-louisさんらしさが思いっきり具現化していると思う。
何が正しいということではない。施主がクライアントとして何をどの程度、プロにゆだねるか/任せるかという違いなのだ。その「ゆだね方」自体が施主らしさを現すという見方もできるのである。
「○○さん・○○建設にすべてを任せて建てた」のも「らしさ」だし、「○○さん・○○建設と侃々諤々して建てた」というのも「らしさ」なのだ。
ただ、私は建築家と組むのなら、まかせっきりで建てるのはちょっともったいないと思う。
非合理・理不尽でないかぎり、自分のオリジナルな注文・条件はわがままいっぱい盛り込んだほうが家づくりの過程を楽しめると考えているからだ(実現するかどうかは別)。
建築家は、自分の「らしさ」を維持しつつ施主の条件を盛り込む。あるいは、施主の条件を「自分らしい」手法でクリアしていく。
そうすると、かつてノアノアblogで繰り広げられた「化合」論を思い出す。十分に化合した家ならば、施主界隈からは「(施主の)□□さんらしさが見えるね」と言われるだろうし、建築業界では「建築家の○○さんらしい」と言われるのではないだろうか。
このあたり、「建てたのは誰か」論ともつながってくるように思う。
注)私は石川淳さん設計による家がまかせっきりで建てられたかどうかは知らないし、個別具体的にゆだね方を論評する気はまったくない。建築家のテイストと施主のテイストが相当近いということだって考えられるし、そもそも内情がわからないからなんとも言えないのである。
谷中M類栖のエントリは建築プロデューサーの朝妻さんのエントリ「石川淳氏 設計の家 見てきました。」へのTBエントリであり、朝妻さんがそれを受けて「“ らしい ” 家について ちょっと思ったこと」というエントリを立てたので、そちらにもTB。
m-louisさんは、「(建築家の)石川さんらしい家」との評に納得しつつ、
>施主という観点でみるとどうなるのだろう
と投げかけている。
これに対し朝妻さんは、想像としつつ、石川さんという建築家の作風が自分達にあうと判断して依頼したのだから、
>「石川さんらしい家」であると同時に「施主らしい家」なのではないだろうか。
としている。
このやりとりで少し考えてみた。
「らしさ」とはあいまいな言葉だ。
m-louisさんがいう「らしさ」は、住宅の設計にどのくらい施主の好みやセンスが関与しているかということを気にかけた視点だと思う。それはいわば施主の関わり具合の濃さと比例する「らしさ」である。
かたや、朝妻さんのいう「らしさ」は、一場面でも成り立つ「らしさ」であろう。選択したこと自体に施主の「らしさ」は生じているという判断である。
朝妻さんのいうことはもっともなのだが、「らしさ」の捉え方がざっくりしている。
例えば、「絶対ハウスメーカーの家でなければダメだ」という施主も、それはその施主の考えが思いっきり表に出ているのだから、その施主「らしい」という説明を成り立たせることができる。私の例でいえば、建築家個人を決定する段階での「らしさ」以前に、ハウスメーカーでなく建築家・設計事務所というカテゴリを選択した段階で「garaikaらしい」などと人に言われたりもしている。つまり、なにがしかの施主「らしさ」は家づくりの入口の段階から必ず生じる。
朝妻さんのいう「らしさ」は確かにあるが、それは入口に近い大きな分岐点での選択そのものだ。
しかし、m-louisさんの気にする「らしさ」とは、くぐる入口を選んで以降、施主のテイストが外観や内観、間取りなどに反映されているのだろうかという具体論なのだ。「らしい」という評価の背景にあるものが微妙に違う。
以前私は、「主導権」というエントリで施主がプロにどのように家づくりをゆだねるかということに言及した。「ゆだね方」によって、選択肢は違ってくるだろうと。
そして建築家に依頼するという範疇の中においても、「ゆだね方」が施主の違いを生じさせるのではないだろうか。施主が建築家にほとんどまかせっきりにして設計してもらえば、外観、内観などに具体的な施主らしさは現れにくいだろう。しかし、施主が口を挟めば挟むほどその施主のテイストが家の造形ににじみ出てくるのではないか。例えばノアノアさんの家の外壁の「ビードロ」などは、はっきりとノアノアさんの主張によってノアノアさんらしさをかもし出しているのがわかる。
自分の家に自分らしさが出ているか懐疑的なm-louisさんにしたって、少なくとも「光庭」ではm-louisさんらしさが思いっきり具現化していると思う。
何が正しいということではない。施主がクライアントとして何をどの程度、プロにゆだねるか/任せるかという違いなのだ。その「ゆだね方」自体が施主らしさを現すという見方もできるのである。
「○○さん・○○建設にすべてを任せて建てた」のも「らしさ」だし、「○○さん・○○建設と侃々諤々して建てた」というのも「らしさ」なのだ。
ただ、私は建築家と組むのなら、まかせっきりで建てるのはちょっともったいないと思う。
非合理・理不尽でないかぎり、自分のオリジナルな注文・条件はわがままいっぱい盛り込んだほうが家づくりの過程を楽しめると考えているからだ(実現するかどうかは別)。
建築家は、自分の「らしさ」を維持しつつ施主の条件を盛り込む。あるいは、施主の条件を「自分らしい」手法でクリアしていく。
そうすると、かつてノアノアblogで繰り広げられた「化合」論を思い出す。十分に化合した家ならば、施主界隈からは「(施主の)□□さんらしさが見えるね」と言われるだろうし、建築業界では「建築家の○○さんらしい」と言われるのではないだろうか。
このあたり、「建てたのは誰か」論ともつながってくるように思う。
注)私は石川淳さん設計による家がまかせっきりで建てられたかどうかは知らないし、個別具体的にゆだね方を論評する気はまったくない。建築家のテイストと施主のテイストが相当近いということだって考えられるし、そもそも内情がわからないからなんとも言えないのである。