少し前、BSのどこかの局の番組で見て知ったのだが、築200年の武家屋敷に住む松場登美さんという方がいる。
松場さんは(株)石見銀山生活文化研究所の所長で、デザイナーである。群言堂というブランドを立ち上げて商品を開発している。
服飾のデザインというより、暮らしのデザインというコンセプトで、なかなか味わいのあるモノを提供している。
その番組では松場さんの暮らし方を紹介していた。
生活する武家屋敷には立派なかまどがあり、松場さんはそれをしっかり使って炊飯していた。プロセスを楽しみながら。
かまどでご飯を炊く、ということについて普通の人はどのように感じるだろうか。
出来上がったご飯が電気炊飯器のご飯よりおいしいということを知っている人はけっこう多いだろうが、出来上がるまでのプロセスについては「面倒」「手間がかかる」「時間がかかる」というマイナスイメージが思い浮かぶのではないだろうか。
ところが、松場さんは楽しんでいる。
釜のなかがどうなっているか想像し、だんだんとおいしそうなにおいがしてくることを喜ぶ。火加減の調節など作業自体をうれしそうにやっている。
現代は、暮らしにおいても効率性が重視されて、時間がかかること、手間がかかることを排除していく方向にある。
その結果、時間を有効活用できるということになる。しかし、その一方で「楽しめる工程」まで一緒に排除してしまっているのではないかと思う。
家事に追われるということはよく言われることだが、家事の中には自分が楽しめる要素が含まれているものもある。時間、効率という側面だけ考えてすべての家事を極限まで簡素化するのはもしかしたら精神を豊かに保つという面で損しているのかもしれない。
同じお茶を飲むのでも、ペットボトルのお茶を飲むのは手っ取り早くのどを潤すことはできるが、丁寧にお茶を入れて飲む場合、湯を沸かして、冷まして、入れて、待って、注いで、器を選んでというような工程の最中に、のどを潤す以外の何かを得ることができると思う。
時間がかかることや手間がかかることを単に時代遅れだと表現したり、それらを排除できることが優れたシステムだと安易に考えたりしないように心がけたい。
効率的なことは経済的な豊かさをもたらすことは多いが、効率ばかりを追求すると精神的には豊かではなくなることもある。
家づくりもそんな側面がある。効率を追求するならばプランニング、設計、施工にいたるまですべて短時間でやったほうがいい。そしてきっとそうした方がイニシャルコストは安い。
けど、家づくりの工程をじっくり楽しむことはできなくなる。
簡略化したい家事というのもあるから、家づくり自体も簡略化したいという要望を持つ人がいておかしいことではない。ただ、簡略化するともったいない家事があるように、家づくりを簡略化したくない人がいてもそれもおかしなことではないはずだ。
松場さんは築200年の家に手を入れながら住んでいる。まだ家づくりを続けているともいえる。
家をつくるということは、本当はそういうことではないだろうか。竣工=家の完成ではないということをあらためて思う。
新築した我が家も築60年ほどの古屋部分を残しているが、そちらも合わせてまだ家づくりを続けていると考えながら暮らそうと思う。
築200年の武家屋敷は、ハードとしての家の性能が現代の家と比べてかなり劣っていることが多いだろう。しかし、松場さんにとって「いい家」であるのは間違いない。その点、以前紹介したターシャ・テューダーさんの家とも通じるところがある。
家のそれぞれの性能は、家の良し悪しを判断する材料にはなるけれども、特定の性能だけで良し悪しが決まるわけではない。そんなこともあらためて思った。
松場さんは(株)石見銀山生活文化研究所の所長で、デザイナーである。群言堂というブランドを立ち上げて商品を開発している。
服飾のデザインというより、暮らしのデザインというコンセプトで、なかなか味わいのあるモノを提供している。
その番組では松場さんの暮らし方を紹介していた。
生活する武家屋敷には立派なかまどがあり、松場さんはそれをしっかり使って炊飯していた。プロセスを楽しみながら。
かまどでご飯を炊く、ということについて普通の人はどのように感じるだろうか。
出来上がったご飯が電気炊飯器のご飯よりおいしいということを知っている人はけっこう多いだろうが、出来上がるまでのプロセスについては「面倒」「手間がかかる」「時間がかかる」というマイナスイメージが思い浮かぶのではないだろうか。
ところが、松場さんは楽しんでいる。
釜のなかがどうなっているか想像し、だんだんとおいしそうなにおいがしてくることを喜ぶ。火加減の調節など作業自体をうれしそうにやっている。
現代は、暮らしにおいても効率性が重視されて、時間がかかること、手間がかかることを排除していく方向にある。
その結果、時間を有効活用できるということになる。しかし、その一方で「楽しめる工程」まで一緒に排除してしまっているのではないかと思う。
家事に追われるということはよく言われることだが、家事の中には自分が楽しめる要素が含まれているものもある。時間、効率という側面だけ考えてすべての家事を極限まで簡素化するのはもしかしたら精神を豊かに保つという面で損しているのかもしれない。
同じお茶を飲むのでも、ペットボトルのお茶を飲むのは手っ取り早くのどを潤すことはできるが、丁寧にお茶を入れて飲む場合、湯を沸かして、冷まして、入れて、待って、注いで、器を選んでというような工程の最中に、のどを潤す以外の何かを得ることができると思う。
時間がかかることや手間がかかることを単に時代遅れだと表現したり、それらを排除できることが優れたシステムだと安易に考えたりしないように心がけたい。
効率的なことは経済的な豊かさをもたらすことは多いが、効率ばかりを追求すると精神的には豊かではなくなることもある。
家づくりもそんな側面がある。効率を追求するならばプランニング、設計、施工にいたるまですべて短時間でやったほうがいい。そしてきっとそうした方がイニシャルコストは安い。
けど、家づくりの工程をじっくり楽しむことはできなくなる。
簡略化したい家事というのもあるから、家づくり自体も簡略化したいという要望を持つ人がいておかしいことではない。ただ、簡略化するともったいない家事があるように、家づくりを簡略化したくない人がいてもそれもおかしなことではないはずだ。
松場さんは築200年の家に手を入れながら住んでいる。まだ家づくりを続けているともいえる。
家をつくるということは、本当はそういうことではないだろうか。竣工=家の完成ではないということをあらためて思う。
新築した我が家も築60年ほどの古屋部分を残しているが、そちらも合わせてまだ家づくりを続けていると考えながら暮らそうと思う。
築200年の武家屋敷は、ハードとしての家の性能が現代の家と比べてかなり劣っていることが多いだろう。しかし、松場さんにとって「いい家」であるのは間違いない。その点、以前紹介したターシャ・テューダーさんの家とも通じるところがある。
家のそれぞれの性能は、家の良し悪しを判断する材料にはなるけれども、特定の性能だけで良し悪しが決まるわけではない。そんなこともあらためて思った。