住宅関連業者のHPにはよく、施主の「声」が紹介されている。
その中に「100%満足しています」というような発言を見かける。中には「120%満足」なんていうのもある。
表現は自由であるべきで、そのことを批判するつもりはない。
ここでは読み手として「こういう表現をどう読むか」ということを考えてみたい。
「100%」とか「120%」とかいう表現は、自分の願望や事前に想像していたものと、出来上がったものの比較から発せられる。
100%というのは、自分が望んでいた水準をクリアしていてどこにも文句がない、ということになるだろう。120%というのは想像していたものよりかなり良いということになるだろうか。
となると、発言者がそもそもどのくらいのものを家に望んでいたのか、ということや、住宅に対してどのくらいの想像力を持って家づくりに臨んだのだろう、ということを読者としては意識すべきではないだろうか。
家づくりを自ら熟考した施主の言う「100%満足」と、業者にすべて任せて家づくりした施主の言う「100%満足」っていうのはきっと違うものになるだろうからだ。
また、家に対する想いが大きい施主の言う「100%満足」と、家に対する想いがさほど大きくない(つまりあまりこだわりがない)施主の言う「100%満足」っていうのもきっと違うものになるだろう。
それぞれが満足しているのだから、発言者にとっては喜ぶべきことである。ただ、これから家を作ろうと考える施主がこうした情報を利用するとき、発言者の家づくりに臨む姿勢と家に対する期待が自分のスタンスに近いかどうかを吟味することは重要だろう(※)。
(※)そしてバイアスにも注意すべきだ。
その中に「100%満足しています」というような発言を見かける。中には「120%満足」なんていうのもある。
表現は自由であるべきで、そのことを批判するつもりはない。
ここでは読み手として「こういう表現をどう読むか」ということを考えてみたい。
「100%」とか「120%」とかいう表現は、自分の願望や事前に想像していたものと、出来上がったものの比較から発せられる。
100%というのは、自分が望んでいた水準をクリアしていてどこにも文句がない、ということになるだろう。120%というのは想像していたものよりかなり良いということになるだろうか。
となると、発言者がそもそもどのくらいのものを家に望んでいたのか、ということや、住宅に対してどのくらいの想像力を持って家づくりに臨んだのだろう、ということを読者としては意識すべきではないだろうか。
家づくりを自ら熟考した施主の言う「100%満足」と、業者にすべて任せて家づくりした施主の言う「100%満足」っていうのはきっと違うものになるだろうからだ。
また、家に対する想いが大きい施主の言う「100%満足」と、家に対する想いがさほど大きくない(つまりあまりこだわりがない)施主の言う「100%満足」っていうのもきっと違うものになるだろう。
それぞれが満足しているのだから、発言者にとっては喜ぶべきことである。ただ、これから家を作ろうと考える施主がこうした情報を利用するとき、発言者の家づくりに臨む姿勢と家に対する期待が自分のスタンスに近いかどうかを吟味することは重要だろう(※)。
(※)そしてバイアスにも注意すべきだ。