日本で中古住宅市場が発達しないのは日本人の性向と関係しているのはたぶん間違いない。
住宅とは違う市場を見ても、それがうかがい知れる。例えば、企業が発行する社債もプライマリー(新規発行)市場はそこそこの規模はあるが、既発行債のセカンダリー(流通)市場はとても貧弱だ。
日本人が「初物好き」「新品好き」というのはよく言われることだが、もうひとつ「寝かせる・塩漬けする」のも好きなのではないか。
いや、もしかしたら単に「めんどくさがり屋」なのかもしれない。
周囲の人と比較して相対的に損しないで「買う」ことに全精力を注ぎ、あとは余計な労力は使わずただ持ち続けるだけ、というような考え。そこには、買った時点より価値を高める発想は見受けられない。
以前のエントリ「住めば住むほど得する住宅」で紹介したように、欧米では家の資産価値を今以上に高める努力をする人々が多い。だからこそセカンダリーマーケットがちゃんと機能する。
プライマリーマーケットでの価値しか考えない日本は、総体として大きな損をしていると思う。「家の価値を高める」ということは国の経済にとっても大きな意味があることなのに…。
例えば、日本の住宅着工件数はここのところ1月あたり10万戸前後で推移しているが、仮に一棟2500万円として計算したら、10万戸なら2兆5000億円、1年なら30兆円の資産となる。
この額を念頭におきながら、年をおうごとに一律に価値を落としていく日本と、価値を維持ないし上昇させている欧米とを比べれば、国全体としての資産形成でどんどん差が付けられていくことが実感できるのではないか。
日本の家にだって価値を高められるポテンシャルがある。それなのに一律に築年ごとに価値が下がるという乱暴な制度(税制)と未熟なセカンダリーマーケットのおかげで国全体の資産価値も上がらない。ものすごくもったいないことのように思える。
古い家だって、市場がしっかりしていれば市場価格がつき、ちゃんと資産価値を生み出せるはず。現在、資産価値がないのは家のせいではなく市場のせいなのだ。未熟な市場が価値を創出できないのであれば、一個人として価値を認識するのみ。
世間は価値を理解しなくとも自分が理解できれば豊かに暮らせる。そして、いつかまっとうな市場になることを想像して大事に家を維持していこうと思う。
「人間の定義とは何か? 価値という観念を理解するかしないかだ」
冲方丁 「マルドゥック・スクランブル」より
住宅とは違う市場を見ても、それがうかがい知れる。例えば、企業が発行する社債もプライマリー(新規発行)市場はそこそこの規模はあるが、既発行債のセカンダリー(流通)市場はとても貧弱だ。
日本人が「初物好き」「新品好き」というのはよく言われることだが、もうひとつ「寝かせる・塩漬けする」のも好きなのではないか。
いや、もしかしたら単に「めんどくさがり屋」なのかもしれない。
周囲の人と比較して相対的に損しないで「買う」ことに全精力を注ぎ、あとは余計な労力は使わずただ持ち続けるだけ、というような考え。そこには、買った時点より価値を高める発想は見受けられない。
以前のエントリ「住めば住むほど得する住宅」で紹介したように、欧米では家の資産価値を今以上に高める努力をする人々が多い。だからこそセカンダリーマーケットがちゃんと機能する。
プライマリーマーケットでの価値しか考えない日本は、総体として大きな損をしていると思う。「家の価値を高める」ということは国の経済にとっても大きな意味があることなのに…。
例えば、日本の住宅着工件数はここのところ1月あたり10万戸前後で推移しているが、仮に一棟2500万円として計算したら、10万戸なら2兆5000億円、1年なら30兆円の資産となる。
この額を念頭におきながら、年をおうごとに一律に価値を落としていく日本と、価値を維持ないし上昇させている欧米とを比べれば、国全体としての資産形成でどんどん差が付けられていくことが実感できるのではないか。
日本の家にだって価値を高められるポテンシャルがある。それなのに一律に築年ごとに価値が下がるという乱暴な制度(税制)と未熟なセカンダリーマーケットのおかげで国全体の資産価値も上がらない。ものすごくもったいないことのように思える。
古い家だって、市場がしっかりしていれば市場価格がつき、ちゃんと資産価値を生み出せるはず。現在、資産価値がないのは家のせいではなく市場のせいなのだ。未熟な市場が価値を創出できないのであれば、一個人として価値を認識するのみ。
世間は価値を理解しなくとも自分が理解できれば豊かに暮らせる。そして、いつかまっとうな市場になることを想像して大事に家を維持していこうと思う。
「人間の定義とは何か? 価値という観念を理解するかしないかだ」
冲方丁 「マルドゥック・スクランブル」より