魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

プーチン、習近平

2022-02-26 11:13:14 | Weblog

ウクライナ侵攻はどの程度までか話題になっている。全面支配になるかならないか、ヨーロッパの出方次第かと思う。民主主義だ人権だといってきたが、経済で首根っこを捕まれている。金のためには見捨てるだろうか。いくら何でもそれではこの先さらにロシアの要求が大きくなる可能性が大である。中国も台湾制圧の行動を起こすだろう。ここでウクライナを救わなかったら、彼らの正義など金持ちのおごりに過ぎなかったということになるだろう。この予想が外れることを期待しよう。
プーチンにも計算外のことはある。ハッカー集団のサイバー攻撃に晒される。ロシア軍のトップは戦争に反対のようだから、ロシア兵の戦闘意欲が問題だ。国民の反対運動がどれほどの大きさになるかも計算できないだろう。
思うに、これはプーチンの悲劇の始まりである。踏み出してはいけない一線を越えたのだ。というより、すでに孤立化は始まっていて、彼の生き残る道はこれしかなかったのだ。習近平も台湾支配に失敗したら生き残る道はない。闇雲にどんな手に出るか、そこが恐ろしいところである。

方や自由民主主義陣営の腐敗堕落も進んでいる。格差の拡大もさりながら、経済がマネーゲーム化している。金権民主主義に過ぎなかったのだ。プーチンが失敗し、習近平が消えたとしても、分断と対立の増殖に終わりは見えない。やはり歴史は暗黒時代へと駒を進めたと言うべきか!?

 


コロナに対する態度

2021-04-29 14:35:53 | Weblog

 

 正義のミカタ」は保守的で経済優先。コロナなど単なるインフルエンザだという見方

をする‥欧米に比べて患者も死者も少ないのに大騒ぎをするなという。現在収束に向かう気配であるとしている。緊急事態宣言など不要だという立場である。この派の代表はホンコン。非合理的、感情的、快楽主義的。衝動的、全体主義的、強権崇拝の傾向がある。

 羽鳥のモーニングショー」はリベラルで疫病対策優先。救える命を救えないような社会ではいけないという。行動制限をしなければもっと多くの人が死ぬことになる。この派の代表は玉川だ。合理的、論理的で精神的。慎重、神経質、反権力的で個人主義。

 経済と人の命と、そのバランスを取るのが政治だが、当然権力は経済を取る。しかし、人名軽視の印象を与えると選挙に不利である。日本人は感傷的で老人大国でもあるからスエーデンのように治る確率の低い高齢者や礎疾患者の重症患者は救わないなどということはできない。

 しかし、変異コロナで患者数が爆発したら、結局命の選択はしなければならなくなるだろう。

 コロナ禍で浮上した古くて新しい問題は、全体の利益と個人の命のせめぎ合いであろう。

 

全体と部分

 さて、全体(社会)は個人の集まりであるか、個は全体の一部であるかという問いがある。全体のために個が犠牲になることはあっても、個のために全体が犠牲になることはない。いやある、戦争は権力者の過ちによって全体が犠牲になる例である。

を持つものである。

 個を全部集めても全体にはならない。自動車は部品の集合体であるが、それで自動車の全てではない。自動車の能力は部品の能力の総合ではなく、別のものである。人を載せて走る能力はどこから来るのか。人の意思・思惟によるものである。こうして、世界は一なる何者かの意思・思惟によって動くのであるという結論が出る。部分は「一なるもの」の思惟する世界の部分である。世界舞台の背景や俳優である。

 「一なるもの」は旧約聖書の神が「我ら」と自らを呼んだように、あるいは「多数の一なるもの」かもしれない。しかし、神は自然が生んだのであるか、神が自然を造ったのであるかで意見は分かれている。しかし、作られたものにしては自然は不可思議である。

 「一なるもの」を精神的な存在とみなしたのが中世である。

 現代は欲望の時代であるから、人間の命も有用性によって判断されるかといえば、そうはならない。どんな人間も自己を愛することは同じである。プライドも同じである。そして心の広いものは自分のように人を愛する。
 矛盾相剋は済の本質、全体と部分は常に、永遠に、戦いの中、競合関係にあるだろう。


インフルエンザ

2020-02-15 11:11:42 | Weblog

 今年もインフルエンザが大流行、予防注射予防注射とかしましい。おまけに新型コロナウイルスと来た。それまで人畜無害だったウイルスが変異したのだろう。地球温暖化の影響かもしれない。自然破壊と同時進行ではないだろうか。自然からのリベンジかもしれない。認知症もウイルス説があるという。ウイルスたちは人間というガンに立ち向かう抗体だったりして・・・
 自然破壊は人類の安楽生活、贅沢から起きる。人間の病も安楽贅沢から起きる。自然豊かな食事を取り、自然の光を浴び、自然の風に吹かれ、土の上で暮らせば自然治癒力は増すだろう。インフルエンザなど寝て直すが一番だ。しかし現代生活はそれを許さない。

 介護施設の存在を思うとき、自然豊かな時代のぼけ老人は幸せだったと思う。ぼけっと田園地帯を歩いていても誰もとがめはしなかった。家族仕事のそばにいられた。今では家族は少子化、会社仕事で家にいないし、危険だからと隔離されてしまう。家でも施設でも、彼らの心の声を聞いてくれる人はほとんどいない。聞く耳を持った人がもっといれば拘束されるほどの重症化は避けられただろうにとも思う。暴れるのは分かってもらえないいらだちからだろう。


一人で死ね

2019-06-04 11:18:23 | Weblog

「一人で死ね」論争はくだらない。そんなことをいえるのは人間に対する無知からだからだ。この発言に対する「非難は控えて」という藤田なにがしの意見に対して、「きれい事に聞こえる」「自分の家族が被害者でも同じ事をいえるか」などと非難の嵐が起こった。「一人で死ねはまっとうな意見だ」と被害者感情に個人的感情を重ねて、いかにもまっとうな意見に聞こえる。正義感の高ぶりである。しかし、その裏にある心は、自分のことは自分だけで解決してくれ、他人に迷惑をかけるな、といっているのである。川崎事件のあおりを受けて引きこもりの子供を殺したエリート官僚もこの手の意見の持ち主だったのだろう。だから自分一人で解決したのである。
 時代の逼塞感もあるが、閉じこもりはコミュニケーション能力の喪失ともいえる。それは先天的な発達障害だけでなく、幼児期の体験、虐待のみならず家庭不和によっても引き起こされるものだ。知的能力の発達も幼児体験によって阻害される。
 児童教育の現状は心理学的な知識によって発達障害の早期発見に努めているが、川崎事件の犯人やエリート官僚の息子の児童期は心理学とは無縁な時代だった。その結果、「うすのろ」だの「ダサい」などといじめの対象となった。その心の傷を負ったまま社会に出てもまともに生きられはずもない。その鬱積が爆発するまでの何十年間彼らは自分の殺意と戦ってきたに違いないと思う。そして敗れ去ったのだ。
 こうした犯罪者心理は、近年増えてきた無差別殺人や虐待死事件が起こるたびにマスコミの俎上に載っていたにもかかわらず、4割強の人々には伝わっていなかったようだ。こうした人たちは表面的にしか物事を見ることができないのだ。橋本なにがしという元政治家の弁護士も「一人で死ね」論を擁護したようだが、これほど馬鹿だったとは!である。しかし、日本人の半数近くならポピュリズムしてもいいと思ったのかもしれない。
 とはいえ、振り返ってみれば、「一人で死ね」発言に批判的な意見も半数近くいるわけだ。これは日本人の進歩と捉えてもいいだろう。


韓国要人の昭和天皇戦犯発言

2019-05-25 14:53:58 | Weblog

 韓国要人の昭和天皇戦犯発言。天皇の戦争責任について一言言えば、先の戦争が犯罪なら、昭和天皇は戦犯でしょう。
 天皇は彼らからすれば、欧米の認識においても、皇帝です。天皇を日本の象徴というのは、日本人にしか分からないことでしょう。

 昭和天皇は戦犯であるというのが彼らの見方だ。彼らにとって、世界のどの国においても、天皇は皇帝と同義である。象徴天皇など理解されることはないだろう。象徴天皇制は立憲君主制でさえないのである。なぜなら、君主としての権限を持っていないし、私有地さえない。
 なにしろ韓国は大統領を殺す国である。下のものがやったことの責任はトップが取るべきものなのだ。戦争責任は免れるものではないと、彼らは言うのである。おそらく中国人も同じだろう。日本人にもそう考えるものはいたようだ。しかし、高度成長のなかで忘れ去られてしまった。
 江戸時代なら天皇に何の権限もないが、明治以来、敗戦までは元首としてトップに立ち、軍の統帥権まで持つ絶対的存在だったのだ。本当は反対だったと正当化しようとしているがけっきょく最後には承認したのである。しかし、殺される代わりに象徴の檻に閉じ込められたともいえる。
 あの戦争を自衛のためだったというのが、右派の言い分だが、彼らのバックにある靖国を初めとする国家神道の思想を見れば、その欺瞞は明らかだ。もちろん多くの日本人ははアジア開放という理想を信じただろうが、軍閥、財閥の野望は覇権主義だ。
 あるいは、欧米に追い込まれたからとか、事後法による裁判は不正だともいう。その通りだと思う。しかし、引かれ者の小唄である。法は常に勝者の側にある。それが歴史というものだろう。

 天皇家が生き残ったのは、それがなくなったら反米感情が渦巻き、日本は共産主義の餌食になるだろうと、連合軍が恐れたということもあるだろう。戦前の天皇崇拝を見ればそう思ったのも当然である。

 世界第2位の経済大国になった日本人にとって戦争は終わったことであるが、覇権主義の犠牲になった国民には、仕返ししない限り永遠に終わらない恨みだろう。日本人は、過去を水に流すという言葉があるように、忘れるのが好き?です。ハンの国民が忘れる日が来るとしたら、日本が不幸のどん底に落ちたときくらいかもしれません。
 とはいえ、時の流れがすべてを風化させる。それまで日本人は隠忍自重すべきだ。日韓関係は政治的には常に悪かったが、ネットワーク時代の今日、権力の欺瞞は長続きしないだろう。現在の20代の若者が国のリーダになったら変わるような気もする。
 というのは悲しいかな理想論に過ぎないか。日本の現在は成金2世の時代。3世時代のことを考えると前途は暗い。

しかし、その先がある〔(/-o-)/〕


春うらら

2019-04-06 10:53:14 | Weblog

4月1日のことだが、庭を歩いていたとき、チチッチイーッという鋭い鳴き声に振り返ってみると、芽吹いたばかりの榎の小枝に鳥がが止まって周囲を見回していた。茶色く尾羽の先の白さが目立った。見たことのない鳥だったので図鑑で調べてみるとシメのようだ。シーと鳴くメ(鳥の意の接尾語)といわれる。現代人にはチーだが、古代人にはシーと聞こえたのだろう。

そのままなかなか動かなかった。ビデオを取りに行っている間に柿の木に移っていた。あまり鳴かないがしばらくするとピーピチョピチョと鳴いた。木の芽をついばむわけでもなく何をしているのか、あたりを見回しているだけだった。5分くらい録画して、用があったので10分くらいして戻ってみるともういなかった。ピーもシーと聞こえるだろう。

次の日の朝は庭を歩いて何かをついばんでいた。くちばしはこの美を砕いて食べるに向いた形だから、冬に樫の木から落ちた木の実を食べていたのかもしれない。3日以後見ることはなくなった。温かくなったからだろうか。シメは冬鳥として渡来するものと夏鳥として渡来するものがあるらしい。くちばしが肉食でなく灰色だったから夏鳥だろう。色が国、顔つきからしてオスだっただろう。

1月にはシメと同じアトリ科のイカルが榎木のみをついばんでいた。去年まではなかったことである。近年我が家の樹木に来る小鳥が多くなった。近隣では薮や林、高木の伐採が進んでいる。葉っぱが飛んでくる、虫が落ちる、などと住民がうるさいからである。庭まで舗装する現代の住宅だから、葉っぱは邪魔者でしかないのだろう。新年号が万葉集からということで、万葉集ブームだそうだが、万葉の心から遙かに遠い現代日本だ、すぐ消え去ることだろう。

4日からぐんと温かくなった。三寒四温も終わりに来たか。
 冴え返り 冴え返りつつ 春なかば 西山泊雲
 そして僕も一句 シメ鳴きて 去りにしあとの 春うらら


改元に寄せて

2019-04-05 13:56:45 | Weblog

「令和」とはなんと堅苦しい!令は令嬢のように美しい、つまり冷たい美しさだ。一流?の知識人がこれを選ぶとは開いた口が塞がらない。それでも号外に人が群がり、歓迎ムード一色だった。日本社会の劣化もここに極まる、といったところだろう。

象徴天皇とは何だろう。重荷に耐えかねて背が曲がっている姿は哀れだった。明治天皇、大正天皇は背筋がまっすぐだった。敗戦後、戦時中からかもしれないが、自由を奪われた生活が忍ばれる。大正天皇は病弱で、知的障害の傾向も見られたらしい。そこから軍部を初めとする官僚たちの専横が始まったのかもしれない。それはともかく、人間の自由より社会を重んじる文化は健在だ。我が町の八幡宮の土地が神社庁の所有ということの違憲性を問う者はいない。皇室の儀式が違憲かどうかなど気にする人は少ない。
 権力階級においては親の仕事を継ぐことを強制されているようだ。親からだけではなく、世間からもである。世間のために勤めるのが「先生」の役目なのである。先生は社会奉仕に専念する聖人君子でなくてはならない。天皇家が自由に振る舞ったら、天皇廃止論が生まれることだろう。僕は、天皇家に生まれるくらいなら乞食の子の方がいいとさえ思う。
 しかし、天皇がはじめて自分の意思を表明したことは評価していいだろう。

天皇の退位表明、秋篠宮の大嘗会発言発言に覗われるように、皇族も自らの意思表明をするようになった。人間宣言を真実のものにしたいという志だろう。
 平成天皇も退位して人間らしい生き方がしたいのだろう。しかし、人間的経験をするには遅すぎるし、皇族である限り人間的経験の機会はほとんど無い。本当の人間的経験とは生死を賭けた自己との戦いにのみあり、隠居生活の自由にあるのではない。
秋篠宮は象徴天皇から宗教色を排除したいのだ

ろうが、宮内庁を初め神社庁につながる、明治以来の権力階級がそれを承認するわけはない、彼らの権威の源泉だから。
 象徴天皇とは何なのだろう。日本人以外には理解できないだろう。人間を人間で無いものに押し込めるこの制度を当たり前のように思っているのが日本人だ。
統合の象徴とは、政府への不満もこれによって薄められるという、ありがたい存在なのである。スポーツ・芸能もしかり、古来権力が民衆を現実から目をそらさせる手段であった。しかし、民衆がそれを必要としているのだから仕方がない。


日韓関係の進化

2019-02-27 15:12:51 | Weblog

韓国大統領ムン・ジェインは親日を清算するという。

まさか親日家を粛正しようというのではないだろう。

しかし過激派は粛正と受け取るかもしれない。

親日家は粛正を恐れて沈黙するだろう。

日韓関係の悪化は避けられない。

しかしそれは必ずしも悪いことではない。

もやもやとしたまま推移してきた日韓関係を、

いったん明白な敵対関係にすることは、

あらためて歴史問題を考えさせるきっかけとなる。

その論争はこれまで双方の自己正当化空中戦で不毛だったが、

情報が自由に行き交うネット時代、

かき混ぜられた論争の泥漿のなかから真実が芽を出すだろう。

おそらくすでに見えないところで発芽している。

それが様々な屈折を経て徐々に成長するのだ。

といっても簡単ではない、何十年という時間がかかる。

言っておくが、

金持ち喧嘩せずなどといって高慢に構えていてはいけない。

謙虚に歴史を振り返ってみよう、相手の立場に立って。

それが君子の道である。


心愛ちゃん虐待死

2019-02-13 15:44:19 | Weblog

ミアちゃんの名前は心彩と深愛の合成のようだ。

両方ともミアとよむ。

それだけ深く愛していたはずなのになぜ虐待したのか。

人間の心の闇は計り知れない。

おそらく自分のおもちゃになってくれると思ったのだろう。

幼稚な魂の持ち主である。

思うようにならないからヒステリックに叱る。

それが逆効果になって子供は錯乱する。

あるいは萎縮して固まる。

それに逆上して手を出す。

このようにして虐待は始まる。

その行為をしつけと正当化したときから地獄が始まったのだ。

監獄で頭を冷やすしかない。

子供殺しは悪人たちにとっても最も憎むべき事である。

彼らには煉獄が待っている。南無阿弥陀仏〔(/−o−)/〕

 


本を作りました

2019-02-05 11:33:53 | Weblog

二年あまり本作りに打ち込んでブログを書く余裕がありませんでした。

書くことは自己を見つめることであり、自己を発達させることですが、それを本にするための労力もそれに資すること大です。

 

電子書籍とMyISBNで作りました。「ウエルビーイング」と「原始・古代の霊魂思想について」の2冊になります。これからも作りたいところですが、老化の具合でどうなりますことやら。