魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

帰郷

2014-05-24 11:01:54 | Weblog

 「とくダネ!」で50代の女性教師がのど自慢へ出場するため保護者会を欠席したことを取り上げていた。現代ではそれを許容する意見も少なくない。春に起こった、子供の入学式に出席するために担任の入学式を出席した女性教師の問題でもいえることだが、現代日本の特徴として職業倫理をどう考えるかということが根本にあるようだ。教師であろうと医者であろうと、昔は聖職といわれたが、現代では職業は職業であってそこに倫理などないと考える人は許容する。社会的倫理は存在するが職業倫理は存在しないのである。僕は教師も医者も信じていないし、聖職など精神主義時代の遺物に過ぎないと思っているからどっちでもいいのである。個人的には子供の入学式に親が出るなどくだらないと思う。しかし、それほど好きでない仕事だったら、医者や教師でも、さぼるくらいはやりかねないと思う。ただし好きでもないのに医者や教師になるかは疑問だ。僕ならならないだろう。人間の心や命に関わることを無責任に出来ないのである。自分には出来ないが、それが出来る無責任な人間の方が多いのではないかと思っている。

 遠隔操作ウイルス事件の片山にだまされた弁護士が精神鑑定に持ち込もうと考えているようだ。人権派弁護士にはお人好しが多い。人格障害は完全に人格が入れ替わることであるが、片山にはそれがない。精神の発達段階は小学生くらいだろう。甘やかされた子供の、偏狭な歪んだ自我によるものであり、単に嘘つき、人の裏をかくのが好きなのである。

 今朝、NHKの「ニュース深読み」で少子化問題をやっていた。人類はその成長期を終え、いまや老化に向かい初めているのではないだろうか。少子化は、生命の老化現象が必然であるように、ある意味で自然現象だと思う。しかし、東京一極集中のような、頭でっかちでゆがんだ少子化は正していいかなければならない。地方の特長を生かした人口分散は、心身をバランスよく使うことが健全な老いを迎える道であるように、社会の健全な成熟の道であろう。

 僕は28才の4月、昭和44年に故郷に帰った。心身ともボロボロあった。その頃のタクシーはエアコンがなく、夏は窓を開けていたので鼻毛は真っ白になっていた。東京はまさしく排気ガス・スモッグの町であった。故郷の空は青く水は清く、緑豊か、道ばたのオオイヌノフグリの美しさにも感動したことを覚えている。
 帰郷してすぐ、B型肝炎で3ヶ月ほど入院したのではなかっただろうか。水ぶくれのように太って黄疸症状が出たのであった。退院後しばらくぶらぶらしていたが、10月、私鉄系のMタクシー会社に就職した。入社したとき、この地のタクシーは時間給が大部分で歩合はきわめて少なかった。お客もハイヤー感覚で使っていて、冠婚葬祭の御祝儀やチップなどをよくもらったものである。T自動車の発展途上で、人口も急激に増え始め仕事も忙しくなっていった。しかし、そのために会社はオール歩合給を目指し始め労働組合ともめた。この地の組合はご用組合のようなものであったから、残業時間無しの歩合給になった。
 入社した手の頃はトップクラスの売り上げを誇っていた僕であったが、歩合給化とともに不良社員化した。タクシーにエアコンが装備されるようになったこともあり、体調を崩し休むことが多くなった。よく休み、よく遊んで10年ほどMタクシーにつとめた。自堕落不摂生の果て38才ころ金縛りに遭った。何かの夢を見ていたという記憶はない。ただ寝床で完全に動けなくなったのである。その状態がどれだけ続いたは覚えていない。夢から覚めるように動けるようになったのではあったか?翌年退職した。


堕落の時代

2014-05-19 11:05:28 | Weblog

 連休の始まる頃から体調を悪くし、パソコンから離れていた。

 連休中、姉は風邪気味で咳がひどくなったので寝ていた。連休明け、月曜日には咳が鎮まったのでデイサービスの作業所、青い空に行かせた。ところが今度は自分が鼻の粘膜が痛み、気管支がむずむずし、風邪気味になった。翌朝は改元でよくなったと思ったが水曜日にはまた悪くなった。夜酒を飲んだ後改元を飲んだ。それが悪かったのか症状がひどくなった。寝ていれば直るだろうと高をくくっていたが悪くなる一方で、土曜日の夜には痰がつまり38°の熱が出るようになった。何十年ぶりかの発熱である。月曜日の朝医者に行った。喘息になっているといわれた。風邪薬と抗生物質を処方された。一週間苦しんで日曜日には小康を得た。まだときどき咳と痰は出る。自己治癒力も老化したようだ。

 東京での、捲土重来モードの生活はすぐ失敗に終わった。肉体労働の後はエネルギー補充のために酒を飲みたくさん食い、その後は寝るだけだった。飲食の快楽のために東大病は消えてしまった。共同生活も解消してアパートを借り、手の指に関節炎という障害のある僕には土建業を続けるのは無理だったので、就職先を探した。しかし、扁桃腺の手術以後、僕は呼吸器に障害を持ってしまったのでまともに仕事を続けることは出来なかった。それなりにがんばったこともあったが転職続きの人生となってしまった。
 障害といっても障害といってしまえるほど明確なものではなかった。酒でも飲めば感じない程度のものだった。鼻の奥と喉の粘膜の痛み、気管支、肺の重苦しさが常時ついて回った。細菌やウイルスがとりついているような感じだった。いったん風邪を引くと熱がなくても咳が3週間ほど続いた。咳止め薬は効かなかった。かえって喘息のような咳が出るようになった。吸入器もスチームも効かない。2,3週間すると青痰が出て直ることが多かった。医者は慢性気管支炎と診断することが多かった。喘息性気管支炎というものもいた。ともかく空気の悪いところはだめで、映画館などでは頭が痛くなったり、眠くなったりしてしまった。冷房も駄目ですぐ頭が重くなり眠くなってしまった。

 思えばニヒリズムにどっぷり浸かった自堕落な人生であった。腰痛、疣痔と体はがたがたになった。多くのいうにいわれないこともした。とはいえ表面上は頑健に見える僕は、対他的にはあるときは右翼愛国主義者、あるときは左翼共産主義者、そしてあるときはたんなる快楽主義者であった。読書は探偵ものやSFが多かったように思う。読書のうんちくを傾けて気炎を吐いていた。そのように38歳ころまで、アル中と陰口をたたかれながらちまたをさまよう人生だった。本当はアル中ではなかったが、40°の扁桃腺熱の後遺症で、頭をやられているのだろう、麻雀をするとき顕著だったのだが、いまでも手の指が震えるのである。


東京へ

2014-04-28 10:13:00 | Weblog

 セオル号沈没事件で韓国社会の闇に照明が当てられている。政府の対応遅れを非難され首相が辞任した。一民間会社の事故で政権のトップが責任をとらされるのは奇妙な感じだが、ハン(仏教語の恨から来た言葉なのだろう)の民族といわれる国民性を知っていれば不思議でも何でもない。従軍慰安婦問題における過剰反応もそこから来るといえるだろう。海外に従軍慰安婦の銅像を建て回るなど自傷行為、自らを辱める行為としか思えないが、ハンのしからしめるところだろう。ハンとは「権力者、優越者に対する恨みつらみ、悲哀、あこがれや嫉み、悲惨な境遇からの解放願望など、さまざまな感情を表すもの」だといわれる。

 ニーチェが重用したルサンチマンという言葉はハンと訳することも出来るだろう。ルサンチマンとは「強者に対しての、弱いものの憤りや怨恨、憎悪、非難の感情」をいうようだ。安保時代を振り返ってニーチェに対する共感を思い起こしたのだが、それはルサンチマンの克服を目指すものとしてであった。安保闘争に立ち上がった学生たちの立場はルサンチマンにあったという点で僕と違っていたのである。
 ニーチェには「神は死んだ!」に共感したのかもしれない。ランボーの「また見つかった。何がだ?永遠。去ってしまった海のことさあ 太陽もろとも云ってしまった。」に共感するところも多かった。世界喪失の虚無感が両者の根底に感じられ、共感したのだろう。
 ニヒリズムといえば、思い出すのは僕の一番好きな日本の歴史、平家時代から豊田臣時代という戦乱の時代である。文学では平家物語、源実朝の和歌、梁塵秘抄などを思い出す。幸若舞の敦盛「人間五十年…」を好んで謡い舞った信長はニヒリストだっただろう。ニヒリズムの克服のために彼は天下を狙い、神にもなろうとした。

 60年安保に挫折した大学生たちは社会人となっての地域社会からの変革を掲げた。農業に貢献しながら農民の意識改革を目指すのもその一つだった。東大病の熱も消えないまま、思ってもいなかった岐阜大農学部に入ったのは彼らのすすめによるものだった。しかし成り行きでそうなっただけで、僕には市民運動のようなロマンチックな精神はなかった。退院してからの僕はほとんど思考停止していたのではなかっただろうか。成り行き任せに、衝動的な生き方をしていたように思う。
 1961年、寮に入っての大学生活が始まったが、科目の勉強はほとんどしなかった。頭に熱がついて思考停止してしまう時間はぼんやり過ごし、頭が冴えている時間は文学書を読むことと東大入試の勉強に使ってしまった。寮生活で覚えたのは麻雀だけだった。そして1962年、東大を受験した。二次試験のとき思考停止に陥り、答案用紙に一文字も書かずに終わった。呆然として座っていた自分の姿が思い浮かぶ。
 岐阜大は当然落第だった。留年して勉強を続けよと仲間にも教師にもいわれたが僕は東京に向かった。東京へのあこがれも強かったようだ。
 受験の時机を並べた重友という男から捲土重来の手紙が来ていたので、彼とアパートを共有し、日雇い労働をしながら勉強することになった。アパートの場所は覚えていない、目黒あたりだっただろうか。三宿だったかもしれない。

 


60年安保時代

2014-04-21 11:28:35 | Weblog


 四国のお遍路で朝鮮人批判のビラが貼られたという。サッカーのJリーグでも排他的言動が目立つという。安倍晋三の国家主義は偏狭な国粋主義者の台頭を促すことになるだろう。それも歴史の必然、日本人の運命なのだろう。

高校3年生の時伊勢湾台風があり、1時住んでいた倉庫が倒れた。いま思い出したが、あの倉庫時代、ブリキで出来たおもちゃの笛(含み笛とでもいうのだろうか、現代では見かけない)を喉に詰まらせて死にかけたのだった。倉庫と井戸の間の通路に立って、自己主張でもするかのように、生家や病室の明るい灯に向けて吹いていたのだった。
 創価学会等を関わり持ったのも3年生の時だった。母の陰気な南無阿弥陀仏が嫌で意気のいい南無妙法蓮華経の創価学会に母を入信させたのだった。僕自身としては神も仏も信じていなかった。

 安保闘争に関わりを持ったのは隣の集落の京大生の訪問からだったのではないだろうか。平和を守る会の後身である市政研究会のサイトによると、大学生4年生だった先輩たちが夏休みに小学校や図書館などで青年会や婦人会と安保条約についての集会を持ったとある。その時のことであろうか。
 安保に対する僕の考えは、ヒューマニスティックなイギリス新左翼の影響を方を受けたらしい彼らとは違っていた。僕はヒューマニストではなく、「人間的な、あまりにも人間的な」のニーチェに共感する部分が多い人間であった。実存主義者の先駆者とみなされるニーチェは人間を意志的存在と見なし、主体的自己超越性を実現したものを超人と呼んだ。僕は主体的自由意志という観点から、自分の国は自分で守るべきだと思っていたのではなかったかと思う。それが愛国者的言動として現れ、彼らには右翼とも呼ばれたりした。浅沼稲二郎を殺害した山口少年に似ていると東大生Sに言われたような記憶がある。確かに日本史が好きで愛国者的なところはあったように思う。愛国的といっても日清日露戦争以前の日本が好きなのであって、満州事変以後の帝国主義は嫌いであった。
 Sには自堕落だという批判も受けた。幼少期から醜い大人たち、社会を見てきた僕には彼らのようなロマンティシズムはなく、ニヒリズムが根底にあったといっていいであろう。ニヒリズムの克服を目指したニーチェに通じるところである。

 この運動が縁で右翼的なのに共産主義的な彼らと臆面もなく遊びにもつきあった。面白ければ何でも良かったのかもしれない。同人誌に詩を書いた覚えがある。その詩稿は残っていないが出だしは覚えている。「ほむらはひとほ やみなかむろに ほのほのゆれて なにおかかたる かたるもかなし むかしのことか」からはじまる、ひらがなで物語風の詩だった。
 酒を初めて飲んだのもその頃だろう。がぶ飲みして、夜中に吐き、二日酔いになった。しかし酒を飲んでいる時は喉の痛みも頭の重さも消え、吐いた後も頭が冴えるような気がしたのではなかったか。手のひらの皮向けもそのときはなかった。それ以後飲食は僕の生きがいになった。

 昭和36年、 1961年にNとともに奨学金を受け岐阜大学に入学した。奨学金というものの存在を知ったのはその時初めてだった。僕の小学校時代からの同級生で、優等生だったAは高校時代から奨学金をもらっていたらしい。父親が役人だったから知っていたのだ。世間と敵対していた我が家ではそういった情報は伝わってこなかった。
 Nは芸者の子で東大生Sと同じ町の花街育ちだった。Sと小学校時代から成績を争っていたというが、貧乏なので中学卒業後は働きながら夜間に通っていたようだ。Sの父親は薬局を開いていて、共産党員だった。ちなみに4人の大学生の1人が岐阜大農学部であった。家業は米穀販売業で、その家の二階には坂口安吾など戦後の文学書などもあって、よく遊びに行ったものだ。大学生TはT自動車従業員の息子で、その頃愛知大学在を中退して地方新聞社に就職したようだ。もう1人の大学生Nは元藩主の家柄で名大生ではなかったかと思う。彼の顔はあまり見なかった。

高校時代は思春期であり、哲学や思想に強い興味を持つ、孔子が言った「学に志した」時代だったと言えるだろう。 また人との違いを強く意識した時代であった。小中学校では背の高いほうであったが、4月生まれの僕は他の同級生に比べて早く成長が止まり、背丈にコンプレックスを持つようになった。自分はもっと背が高いはずだという思いが終生付きまとうようになった。


高校生活の終わり

2014-04-08 11:30:57 | Weblog

 家周りのメンテナンス、ホームページのメンテナンスに追われて一日中一度も人との会話のない日々を送っている。口の体操のために音声入力「ドラゴンスピーチ」を購入した。試してみると発音能力の劣化のひどさがわかった。このままでは痴呆化する危険があるので大いにこのソフトを使おうと思う。この書き込みもドラゴンスピーチで入力した。修正などはまだなか慣れないのでマウス、キーボードを併用している。

 高校3年の時に新聞を配達を止めた。高校3年生での思い出としては野山を歩き回っていた印象が強い。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」 、ロマン・ロランの 「ジャンクリストフ」なども読んだ。ニーチェの「人間的な人間的なあまりにも人間的な」を読んだのも高校3年生からその頃だろうと思う。とにかくいろいろな本を読んだような記憶がある。多くの詩歌を作ったのもこのころからだろう。
 放浪には扁桃腺の熱に浮かれていたという面もあったと思う。冬になって40度の熱がたびたび出て、卒業間際になって手術のために入院した。入院日数は覚えていないが1ヶ月ほどかかっただろうか。指先ほどの扁桃腺を2つ切った。両方とも青い膿に覆われていた。長い間の我慢の結果だろう。呼吸器系統の欠陥は小学校時代のタイル工場での粉塵の影響が強いと思っている。それが新聞配達で悪化したのだと思う。退院した後しばらくぶらぶらしていたように思う。そして近くにあった鍛造工場で働いた。年金記録によると8月から7ヶ月勤めたようだ。病み上がりの体というより、バリ取りに出る粉塵が鼻や喉、気管支に良くなかった。

 退院後の体調はよくなかった。ちょっとした気候の変化でも頭がぼーっとなって何も考えられなくなった。体調のいい時は咲いていた頭もその時は停止してしまった。この状態は以後何十年も続いて僕を苦しめた。

 その頃60年安保闘争が始まっていた。この町でも高校の先輩たち、その頃東大などの大学4年生たちが主体となった平和を守る会というサークルが活動していた。何がきっかけだか覚えていないが僕もそれに参加するようになった。リーダー格には年長者で、T自動車の下請け会社の社長の2号の息子がいて、その自家用車だっただろうか、初めて車というものに乗せてもらった。


高校時代

2014-04-08 09:56:30 | Weblog

 今年になって同級生夫婦を訪ねていない。家周りのメンテナンスとブログ、ホームページの書き込みで忙しいからであるが、彼らが忙しくなったからでもある。長男の奥さんが急死して、孫の面倒を見なければならなくなったのである。お孫さんは自閉症だから目が離せないようだ。のんびりお茶を飲んでいる余裕はなさそうだ。知的障害者とつきあうのは難しいことなのだ。自閉症とのつきあいは受容が大切なのだが、それにはその気持ちを理解しなければならない。それができるようになるには10年の苦闘が要するだろう。70過ぎの彼らには無理なことだ。慰めに行ってやりたいが・・・

 新聞配達をしながら高校に通った。大配りといって、朝の3時、4時に起きて町の新聞屋まで新聞を受け取りに行き、5人ほどの小配りに持って行った。その後自分の集落を配った。自転車で行くのだが、その頃はどこにも舗装道路はなかったので風の日などは砂塵が舞い難儀だった。雨風の時は悲惨だった。風にあおられて倒れ、新聞を風にさらわれたこともある。気管支炎で扁桃腺、蓄膿の身にはきつい毎日だった。学校帰りには新聞屋によって夕刊を受け取って配った。だからクラブ活動はしなかったので、学校生活を楽しんだ思い出はない。
 どんな勉強の仕方だったか覚えていない。東大病にかかっていたのはよく覚えている。新渡戸稲造などの伝記の影響かもしれない。反面文学に熱中していたので受験勉強などしたことがなかった。勉強とは読書のことだったと言っていいだろう。教科書を何度も音読した。参考書を読むのも好きだったように思う。藤村や啄木、宮沢賢治の影響を受け、あるいは芭蕉や西行、万葉集などの影響を受け俳句や和歌や詩を作り始めたのは2年生頃だろう。哲学にも興味を持った。イデア論や唯物論は三年に入った頃からではなかったかと思う。 学業そっちのけで、授業中も机の下に置いて読んでいたように思うリーダースダイジェストも愛読していたのではなかったか。
 3年生の頃は何かにとりつかれたように詩作を練るなどしてそこら中をうろついていたようだ。夏でも黒いマントを羽織ったりして頭がおかしくなったと噂されもしたようである。実は悪化した扁桃腺の熱に浮かれていたのでもある。そしてついに40度の熱に倒れた。 


中学卒業

2014-03-24 10:22:39 | Weblog

 中学の卒業アルバムを開いてみた。校長や教頭の顔に覚えがない。3年間の担任の顔はさすがに覚えていた。3年生の時バスケット部だったが先生の顔は覚えていない。もっとも印象に残っている先生は美術の白山先生だった。3段に整列した18人の先生たち、その最上段で一人天を仰ぎ見ていた。彼の絵画理論はシューリズムだったと思う。彼には自画像や樹木の書き方をほめられた記憶がある。もう一つ思い出したことがある。1年生の時だったと思うが、国語の時間に自分の名前について感想を書くということがあった。僕は自分の名前を意味のないもののように思っていた。父は源三郎という名だったが、その源の字をもらって源弘というのが僕の名である。一時もらっただけの意味のない名だと思っていたのである。国語の先生は「一字もらうのは立派に意味のあることです」と添削してくれた。何の意味があるのかと僕は先生に反発を感じた。しかし、今考えてみると、兄弟の中で源という字を持っているものは一人も居ない。名は体を表すというが、自分の人生のあり方、思想性に通じることもあり、不思議なことのようにも思える。父が死んだのはその先生の家の前であった。

 中学校の修学旅行には参加できた。おそらく遺族年金のおかげだろう。腹違いの兄の戦没者遺族年金をもらうようになったのは昭和33年ころだかと思ったが、戦後停止されていた恩給法が再開されたのは僕が小学6年生だった昭和28年8月だそうである。孤立無援の母がそれを知ったのはもっと遅いだろうが、少なくとも1、2年後、中学2年生の頃にはもらっていたのかもしれない。徴兵であり、上海の病院で24才で病死したのだから金額はそれほど多くなかっただろうが、暮らしは少し楽になったようだ。その頃の母の日課は仏壇に向かって浄土真宗のお経を読むことだったように思う。

 修学旅行の行き先は鎌倉、箱根、東京だった。覚えているのは下痢と東京踊りである。下痢は無茶食いのせいだったかもしれない。空腹時代の反動だろう。扁桃腺肥大もあって悲惨な旅だったように思う。

 3年生の時、卒業した先輩から受け継ぐ形で新聞配達を始めた。この先輩には恩がある。隣村の神社の祭りで上映された映画を鑑賞中、大声でしゃべっている連中がいたので、静かにするように注意したら建物の裏に連れ込まれてリンチされそうになった。今から思うといわゆるチンピラ連中だっただろう。それを止めてくれたのがその先輩だった。彼の兄がやくざの幹部だったから連中も引き下がったようだ。彼の話では死んだ父に命を助けられた恩があるらしい。父は貧しい家からは金を取らなかった医者らしい。そういう話をする人は少なくなかった。新聞配達中に野菜をくれた人もいた。それも僕が悪にならなかった原因かもしれない。
 さて中学卒業後の進路問題である。僕としては就職を覚悟していた。勉強は夜間に通えばいいくらいに思っていた。しかし母は高校進学を主張した。それも兄の年金のおかげだろう。新聞配達をしながら公立高校へ通うことになった。 


中学時代3

2014-03-14 10:37:49 | Weblog

 近頃はインフルエンザとかノロとかやたらに流行する、それも次々と変異を繰り返しワクチンが追いつかない。僕は一度もワクチンを打ったことがない。手洗いも消毒剤なしで雑なものである。床にこぼれたパンくずなども拾って食べる。床は滅多に掃除しない。飲料水は水道ではなく、畑の野菜程度の細菌のいる井戸水である。それで病気になったこともない。滅菌状態で育てられた現代の子供は弱い。精神もまた。現代夫婦は出生前診断で障害児の生まれる危険を避けるそうだ。人間社会に障害児が存在するのは大切な自然の摂理だろうと僕は思う。その経験は精神を発達させる。そして、逃げるものにはさらなる不幸が襲いかかるだろう。

 小学校の同級会が3年に1度くらいの割合である。奇妙なことだが中学の同級会には出ないが小学校のには出るという人もいる。おそらくいい思い出がないのだろう。小学校時代は成績優秀でも、中学ではあまりふるわなかったということもあるのだろう。いじめ大将株だったらしいやつはどちらにも出ない。僕は彼らに対する記憶もほとんどない。
 Yくんの両親は教師でキリスト教徒だったらしい。彼にいわせると僕は彼が貸してくれた聖書を一生懸命読んだようだ。神社やお寺にも興味があって、近くに住んでいた祢宜さんを訪問して祝詞のことを聞いたような記憶もある。漫画本も好きだった。あらゆるジャンルの本を読みまくっていたようだ。図書室にもよく通った。美人の先輩が受付にいたりして、羞恥心の塊のような僕は地に足がつかない思いだった。

 好奇心、知識欲は旺盛だったのだ。しかし記憶するということが嫌いだった。数学の公式を覚えるのが苦手で、テストでは論理だけで正解を導いた。教師の採点には公式を使ってくださいとあった。僕には1+1=2という公式が理解できなかった。計算ができないわけではなかった。公式の成り立ちが不思議だったのである。おそらく世の中に対する不信感、懐疑心が裏にあったのかもしれない。
 中学校の卒業アルバムで見ると明るい顔をしていた。明るい顔をしていたのは見せかけや人に好かれたいからではなかったように思う。そのときそのときを楽しんでいたように思う。どんないやなこともさっさと忘れて前に進むのが僕の生き方だった。忘れることが僕の特技と言ってもいいだろう。


無差別殺人、愛されたい魂の転落

2014-03-10 10:06:44 | Weblog

 子供の代わりに婚活だって。大学受験にも両親が付き添う時代だ。世も末といいたいが死語だろうか。そして、手に負えなくなったら見捨てる、さんざん甘やかしておいてそれはないだろう。

 イギリスのハリー王子が一生懸命にボランティアして賞賛されているらしい。王室廃止論が強まっているのだから一生懸命いい人でなければ未来が危うい。

 いい人であり続けるのは大変、浅田真央はその意識が強すぎたから自分自身になりきれなかった。自意識過剰は、幼少期からスターだったせいもあるだろう。マスコミが持ち上げすぎたせいもあるだろう。ベートーベンのまねものに過ぎない曲を、まるで名曲かのように喧伝してもらった佐村河内(醜悪な記者会見だった)のことでもいえるが、マスコミの嫌悪すべき詐欺的な負の面である。古代ローマ帝国以来、スターを作り出して金や権力を得、維持しようとするのが権力者の常である。

 人面のいい人間にろくなやつはいないというが、スターの転落人生は少なくない。真生は最後にスター性を取り戻してよかった。義足の英雄の妻殺しもある。三重の少女殺害は評判のいい18才の高校生だった。金目的かは疑問だ。彼は挫折していたので花火でのぼせ上がり、鬱憤のはけ口を求めて引きずり込んだのだろう。

  名古屋の暴走車無差別殺人未遂事件についてのその後の報道はない。頭のけがによる人格障害(解離性障害に似ている)が 明らかになったからだろうか。精神の障害だとすれば、この容疑者の家族は無責任にも彼から逃げ、病院にも入れず孤立させていたことになる。甘やかして育て、手に負えなくなると逃げ出す無責任な親たちは少なくない。柏市の通り魔竹井聖寿も人格障害、精神疾患だろう。人のためによくしたいといい、よい人を志した彼が殺人者になったのは挫折が引き金になったと考えられる。幼少期に甘やかされた様子が見える。武器に執着するところに破壊欲が現れている。過保護の親への依存心が、成長に従って自立を促され無意識の殺意となったのだろう。そして異常性の発現とともに見放されたのだ。いや、過保護の囲いを破壊したいという欲望が第一原因かもしれない。奇しくも聖の字を共有する酒鬼薔薇聖人のフアンだという。


 

酒鬼薔薇の筆跡や文章のうまさ、利き腕の違いなどによる冤罪疑惑については二重人格や多重人格のように、この人格の時は優れた能力、違った能力を発揮できたのかもしれないと考えられる。酒鬼薔薇には解離性障害はないと診断されたようだが、診断ミスではないだろうか。特定不能の解離性障害という症例もあるようだ。


  身勝手な事件が多いという、身勝手でない事件とは何だろう。いじめなどの原因があるという意味だろう。甘やかされて育った子が大きくなって他人との関係に、愛されないという怒りから起こす事件であろう。自分を破壊する代わりに他人を破壊しようとすることが多いようだ。僕の場合は幼児期から愛されることに絶望していた。そのために破壊欲が強く、剣や銃に強くあこがれていたように思う。しかし、元から愛されていないので愛されていることの喪失感による殺意ではない。とはいえ殺人者になる可能性は大きかっただろう。
 男の子は皆武器が好きである。男の子はものを分解するのが好きなようだが、探求心も破壊欲の一種ではないかと思う。愛するということは破壊心に似ている。幼児期、僕は自分の糞をいじくる癖があったと誰かに聞いた覚えがある。この探求心が僕を救ったのではないだろうか。 


中学時代2

2014-03-06 09:37:20 | Weblog

 NHK「ダーウインがきた」を見て生命の神秘を思う人は多いだろう。美しくも悲しく、けなげな生命の宴である。本能で生きる、それを無邪気ということもできる。しかし人間は本能的欲望をあからさまに見せるのを恥じる。人間の場合は邪気があるのである。本能に邪気が混じるのである。邪気とは物の怪が原意だろう。肉体は物の怪に憑かれて病気になる。心が物の怪に憑かれると人に害を与えようとする悪意を持つ。そのように昔は考えられていた。現代人は身体、心の歪み、身心の病と考えている。歪みや病はエゴという精神活動によって生まれる。それ故に古の聖人はエゴから離れようとした。しかし、エゴという精神活動、生命的にいえば精神の代謝活動もまた神秘ではないか。エゴを離れて人類という生命は存在しない。人は歴史物語に感動する。人間の歴史とはエゴという精神的代謝活動の歴史でもある。現代も人類はエゴの争いが休み無く続けている。これも歴史の一コマ、大国同士の角突き合い、あるいはご近所トラブル、喧嘩も、水牛の角突き合い、蝸牛角上の争いも生命運動と眺めれば感動すら覚えるだろう。自分自身の歴史に対してもそうありたいと思う。
 しかし自分自身のこととなると忸怩たる思いがある。


じくじたる(恥じ入る様)という言葉は、恥を忘れた現代日本ではもう死語かもしれない。


 記憶にないが、同級生によると僕は親孝行で表彰されたことがあるらしい。仕事で帰りの遅い母に代わって食事を作ったりして兄弟の面倒を見、畑仕事を手伝った。夏冬の休みにはタイル工場の仕事も手伝うこともあったからだろう。表彰状をどうしたか、破って捨ててしまったのではないだろうか。世間だけではなく母親からも愛されることに絶望していてひねくれていたのである。先生に対する尊敬心もなかった。3年間級長を務めたのが不思議なくらいである。外面的には結構明るかったように思う。遊びも運動もしっかりやったように思う。同級生と相撲を取ったりもした。劣等感の裏返しで何でも一番志向が強かったように思う。飛び馬では実力以上の最高段に挑戦して股関節を痛めてしまった。これも終生の欠陥となってしまった。関節炎の手で鉄棒の大車輪に挑戦して転落したことがあったような気もする。

 話し方大会というのだっただろうか、宮沢賢治について話した。赤面屋の僕は上の空で、けっきょっく原稿を読み切る前に時間切れになった気がする。英語での話し方大会にも出たような気がするが、どうなったかは覚えていない。