魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

中学時代2

2014-03-06 09:37:20 | Weblog

 NHK「ダーウインがきた」を見て生命の神秘を思う人は多いだろう。美しくも悲しく、けなげな生命の宴である。本能で生きる、それを無邪気ということもできる。しかし人間は本能的欲望をあからさまに見せるのを恥じる。人間の場合は邪気があるのである。本能に邪気が混じるのである。邪気とは物の怪が原意だろう。肉体は物の怪に憑かれて病気になる。心が物の怪に憑かれると人に害を与えようとする悪意を持つ。そのように昔は考えられていた。現代人は身体、心の歪み、身心の病と考えている。歪みや病はエゴという精神活動によって生まれる。それ故に古の聖人はエゴから離れようとした。しかし、エゴという精神活動、生命的にいえば精神の代謝活動もまた神秘ではないか。エゴを離れて人類という生命は存在しない。人は歴史物語に感動する。人間の歴史とはエゴという精神的代謝活動の歴史でもある。現代も人類はエゴの争いが休み無く続けている。これも歴史の一コマ、大国同士の角突き合い、あるいはご近所トラブル、喧嘩も、水牛の角突き合い、蝸牛角上の争いも生命運動と眺めれば感動すら覚えるだろう。自分自身の歴史に対してもそうありたいと思う。
 しかし自分自身のこととなると忸怩たる思いがある。


じくじたる(恥じ入る様)という言葉は、恥を忘れた現代日本ではもう死語かもしれない。


 記憶にないが、同級生によると僕は親孝行で表彰されたことがあるらしい。仕事で帰りの遅い母に代わって食事を作ったりして兄弟の面倒を見、畑仕事を手伝った。夏冬の休みにはタイル工場の仕事も手伝うこともあったからだろう。表彰状をどうしたか、破って捨ててしまったのではないだろうか。世間だけではなく母親からも愛されることに絶望していてひねくれていたのである。先生に対する尊敬心もなかった。3年間級長を務めたのが不思議なくらいである。外面的には結構明るかったように思う。遊びも運動もしっかりやったように思う。同級生と相撲を取ったりもした。劣等感の裏返しで何でも一番志向が強かったように思う。飛び馬では実力以上の最高段に挑戦して股関節を痛めてしまった。これも終生の欠陥となってしまった。関節炎の手で鉄棒の大車輪に挑戦して転落したことがあったような気もする。

 話し方大会というのだっただろうか、宮沢賢治について話した。赤面屋の僕は上の空で、けっきょっく原稿を読み切る前に時間切れになった気がする。英語での話し方大会にも出たような気がするが、どうなったかは覚えていない。