四 花と蝶
アパートで今、私は胡蝶一座の構成を書いている。窓外でコズエの白い裸身が私を誘う。目を瞑れば、なお一層鮮やかに甦る。湯を弾く玉の肌、生命そのもののように弾む乳房。湯煙の中で妖しく揺らめく若萌。
二つの肉体。他人の顔。ミズエとコズエ、この一卵性の双子は、顔を除けば、総てが一つ、同じ乳房、同じ女性器に、一つの心を持っているのだろうか?
邪念を振り払って原稿に向かうのだが、無駄な抵抗だった。夜の静寂の中では、コズエの魔性に勝てる勇気も、強い精神力も、残念ながら私は持ち合わせてはいない。
窓の外の暗闇で二つの光る目が浮かんでは消えた。その光が誘ったのか、東の空がようやく白み始めた。
海は大きくうねっていた。
海岸通をジョギングする女性がいた。
新聞配達の少年がいた。
少女が自転車で牛乳を配っていた。
お宮の松の陰で、黒メガネの男が海を眺めていた。
風が囂々と鳴っていた。
波が坂巻き、海が荒れていた。
重く垂れ込めた雲を裂くようにして朝日が射し込んで来た。と思うと、見る見るうちに鮮やかな朝焼けが熱海の海に現れた。
朝焼けに誘われて、私は海岸通りを散策し、岸壁に凭れて海を眺めた。
桟橋の先で、紅白の布が風にはためいてクルクルと舞っていた。目を凝らして見ると、それはコズエが舞っていたのだ。白衣に紅袴、紗の長い肩布を靡かせ、鈴を鳴らしながら、三度回って旭日を拝祈している。
神を降ろしているのだろうか?
神懸かりの儀式なのだろうか?
それとも何か呪詛しているのだろうか?
コズエは跪いて敬虔な祈りを捧げている。
祈りが終わったかと思うと、踊るようにしてその場で跳ねた。
まるで十メートル程も跳ねたように私には見えた。旭日に向かっていたコズエの身体がゆっくりと回転しながら空中を漂っている。紅白の肩布がまるでコズエの宿命を縛り付けるようにして、風にはためきながら彼女の肉体を、細頸と腰に巻きついていった。華麗で可哀想な蝶の標本のように見えなくもなかった。
朝日を受けて黄金色に虹んでいたコズエは、まるでスローモーションのようにして片膝をついて着地し、瞑想していた眼を瞬かせながら開いて行く。極鮮色に煌めく閃光が拡散していた。
コズエは大きな眼を見開くといきなり走り出した。私を見つけたのだ。
黒メガネの男が慌てて松の陰に隠れた。海を眺めていたのではなく、コズエの様子を窺い、ずっと見つめ続けていたに違いない。
「鬼太郎は一体 いつ寝るの?」
初めはセンセイ、次が鬼太郎さん、夜が明けたらもう鬼太郎と、遠慮なく呼び捨てにする。
「鬼太郎!」
一声高く叫んで、
「おはよう!」
今度はひどく無邪気に笑った。その美笑が顔一面に広がって行く。目眩ましにあったように私の意識が、ただでさえ寝不足で朦朧としていた私の意識が混沌とした。その後のことは藪の中、私はただ、波間に漂う小舟のように夢を流離った。
巫女、神子とも書き、巫などとも言う。
有る意味では、コズエこそ真の巫女に相応しい娘だった。その時、小学校高学年程の学力さえ持ち合わせていなかったが、北から南、西から東へと、彷徨ボヘミアンの旅芸人の娘に生まれてしまったのだから、それはコズエの罪では無い。
何を見ても、何を教えても、必ず一度で憶えた。興味をひくと、全てを知り尽くすまで、目を見開いて見続けて飽きない。グルグルと廻り、あらゆる角度から知ろうとする。コズエの目がことさら大きく感じたのは、きっとその所為だ。
対してミズエは、やはり同じ様な能力を持っていたのだが、コズエに較べて余程控え目で、他人に対して閃かす事など決してしない。
初め、この娘は精神薄弱気味か、或いは口か耳が不自由なのかと、錯覚した程喋らないのだ。何を言おうとしても、慎重に考え、言葉を選んでいる内に、機会を失ってしまうのだ。
コズエは生まれてくる時代を間違えたのかも知れない。もしも、前世と言うものが有ったなら、栄耀栄華を誇った民族の王女であったに違いない。私はコズエを戴く民に生きることを望み、夢見るだろう。現にそんな夢を見た。
神殿に祈るコズエがいた。
傍らに雄々しく佇む王がいた。
夥しい数の民がコズエを拝んでいた。
民衆の歓呼の中を征戦につく大軍が行進していた。
夢の中で、私は王では無かった。将軍でもなく、兵士でもなく、民でも、奴隷でさえなかった。
泥田の畦に咲く、名も無く見窄らしい花でしか無かった。例え召使いでも奴隷でも良い、人というモノに成りたい、麗しいあの娘を、人として拝んでみたい。焦がれるように望んでいた。
そんな私の心をからかうかの如くに、蝶が舞っていた。
望むが良い。願うが良い。
例え花でも虫でも、生命有るものは皆、望めば人になれるのだ。生命に貴賤は無い。
蝶がそう囁いて私を唆すのだ。
白く大きく棚引く雲から、太陽が燦々と輝いて、花である私を照らした。
そこで私は目を覚ました。
窓から眩しいばかりの陽が射し込んで、私の顔を照らしていたからだ。
もう午後一時を過ぎていたので、惜しい気がしたものの、跳ね起きて、頭から水を被るようにして顔を洗い、目を覚まさせた。
原稿に向かった私の筆は、不思議なほどスムーズに動き、一気に構成を書き上げた。
五 太公望
胡蝶一座の稽古は、朝十時からの二時間ばかりと、午後二時から夕方までの四時間だった。稽古は順調に進み、週末を待たずにほぼ完成した。
この日も午後の稽古を見に行こうとした時、キッチンの隅で釣り竿を見付けた。
私は稽古はやめにして、桟橋で釣り糸を垂れる事にした。もはや、稽古で私がすることなど何もないのだ。
晴れ渡る青空に、紺碧の海、まだ二月だというのにポカポカと春のようだった。
釣り糸を垂れながら、一応ウキの辺りを眺めてみる。実は、ウキなど見る必要はまったく無いのだ。私の針には餌が付けてないのだから。魚を釣るのではなく、釣りそのものが目的なので餌など必要無い。
小さい頃からこんな具合にして釣りを愉しむのが好きだった。とてつもなく贅沢な趣味、と私は自認している。実際、こうして海面を眺めやっていると、不思議に心が落ち着き、様々な想念が沸いて来る。
小魚が海面付近に群れて遊び、春の陽に照らされてキラキラと煌めいている。
私は海面を心の鏡にして、ミズエを想った。記憶が甦り、私の想念と混じって、その鏡に像を結んだ。ミズエが微笑んでいる。その微笑みが水面に揺れて散った。
ミズエの面影が、小魚の群の集散とともに、現れたり消えたりするのだ。
ミズエが現れ、また消えた。再び現れたかと思うと、それはコズエだった。いつの間にかコズエが私の傍らに佇んでいたのだ。
「鬼太郎は釣りが下手ネ。一時間以上経っているわ」
ミニスカートのコズエが私の左に座った。
「私、手伝ってあげる。きっと釣れるわ」
「それは無理だろう?」
「大丈夫、まかせて」
海面に向かって垂れるコズエのサンダルが外れそうだ。だが決して落ちなかった。まるで体の一部のように、際どくも足と繋がっているのだ。
「ずっと見ていたの?」
「まさか、あたしじゃないわ」
その時、奇跡が起きた。
餌のない釣り竿で、魚がつれたのだ。
ほんの数メートルしか離れていない所で、ミズエが立って私を見つめていたのだ。
「お早う。・・・稽古は終ったの?」
ミズエに声を掛けたのだが、
「午後の稽古、今日は休みになったの」
コズエが答えた。
サブリナパンツのミズエ、今日は髪を編み込んで頭の上で束ねている。そんなミズエが躊躇いながらも、おずおずと近付いて来る。
私は下駄を揃えてミズエの足下に置いた。
「座ったら?」
「有り難う」
歌と台詞以外でミズエの言葉を聞いたのはそれが初めてだった。
「岸壁に座るのなんてミズエには無理かも」
「どうして?」
「水が怖いの。私たち全然泳げないの」
「コズエは怖くないの?」
「わたしは平気、怖いものなんかないわ。沢山人もいるし」
コズエが私を覗き込んだ。
「喜太郎泳げるのでしょ」
「ああ、そこそこ、にはね」
コズエがミズエを振り返って言った。
「大丈夫。落ちたって喜太郎が助けて呉れるわ」
迷っていたミズエが私の右隣にそっと腰を掛けた。そよ風が私の右頬を掠め、梅の花の香りが漂った。まるで佐保神のような、なんて爽やかな娘なのだろう。
私は、珍しくも長い髪を束ねたミズエの項を見つめた。が、有るかもしれないと期待していたホクロは見当たらなかった。
ミズエの頬が微かに膨らんで、唇が僅かに開こうとしている。何か私に言いたいのだろうか?
私はミズエの言葉を待ち望んだ。
「釣れたらいいネ。きっと釣れる。私が祈ってあげるから」
こう言って、コズエが海中のウキの先を凝視している。
「ムリムリ、餌なんかついてないのだから」
ミズエの耳元でそっと囁くと、ミズエが驚いたように私を見つめ、コズエはムキになって、更に海を凝視し、何やら呪文を唱えた。
私はミズエの顔を覗き込むようにして微笑みかけた。
「ホント?・・・本当に餌がついていないの?」
「ホントさ」
「でも、引いているわ。ホラ!」
ミズエの指さす先でウキがピクピクと動いている。
慌てて竿をあげると、小さな小生意気なフグが針に掛かっていた。
指で軽く腹を弾くと、プーッと体が膨らんだ。
「まるで、コズエちゃんみたいだネ」
クスッと笑ったミズエが大きく頷いた。
「かわいそうだから今度だけは許してあげよう」
と言ってフグを海に放すと、今度は、フグに例えられたコズエの頬がプーッと膨らみ、私から視線を外した。その項にホクロが三つ、まるで梅の花のように息づいていた。
その後二人は私のアパートについてきた。
自慢のオーディオセットの正面に座ったミズエが、マッキントッシュ(オーディオアンプ)のエメラルドグリーンのロゴに魅入っている。
コズエは立ったまま、遠慮なく部屋中を見回している。
コズエの視線が隅のバイオリンケースの上に止まった。
「鬼太郎のバイオリンが聴きたい」
「中は空っぽ。・・・ただの飾りさ」
「お願いだから聴かせてよ」
「本当に弾けない」
コズエの目がキラリト光った。意味ありげに微笑んでいる。
私はコズエを無視して、バド・パウエルの『クレオパトラの夢』を選んでターンテーブルに乗せた。エアダスターで埃を吹き飛ばし、静電気を除去した後、鹿皮のクロスで丹念に拭い、アームを盤に運ぶ。いい音で聞くための儀式のようなものだ。
軽快にスイングするパウエルのピアノが飛び出して来た。
やっとコズエが腰を下ろし、ミズエを少し端に追いやって、私がミズエの為に用意した特等席を独占した。
バド・パウエルのクレオパトラの夢を聴きながら、
「パウエルは凄いパラノイア、偏執病に掛かっていて、躁の時と、鬱の時の差が酷かった人でね、黒人プレーヤーとしては当然のように麻薬に溺れた。好不調が激しくて、このレコードを吹き込んだ時も酷い状態だったと言われている。だから、ミスタッチがかなり目立つ」
コズエもミズエも良い耳を持っていた。私の解説に見事に反応した。正直私には良く聞き分ける事が出来なかったのに、ミスタッチを殆ど見つけては顔を見合わせて頷き合っている。
「そんなモノを跳ね返すような、唸るような熱演で、パウエルで一番好きだな、この演奏」
二人とも初めて聴くジャズの、それも飛び切りの名演にかなり興奮していた。
この姉妹のように、耳が良く、感性の豊かなリスナーを手に入れるなんて、オトキチ冥利に尽きるというものだ。
私は次々と秘蔵の愛盤を掛け替え、二人は夢中になって聴いてくれた。
そして今、グレン・グールドのバッハを聴かせているところだ。
この日から、ミズエもコズエも、たびたび私のアパートに入り浸った。
それは良いのだが、意外な付録、小道具係りの健一という若者まで仲間に加わって来たのは余り有り難く無かった。健一は漁師の息子だがグレートホテルでアルバイトをしていた。いつもジーパンに半袖のТシャツ、真冬でもペラペラのジャンパーを羽織るだけだったらしい。
コズエと健一は出来ていた。というより、コズエが健一を子分か家来のように従えている、つまりバシリと言った方が正しいのかも知れない。
2016年11月29日 Gorou
アパートで今、私は胡蝶一座の構成を書いている。窓外でコズエの白い裸身が私を誘う。目を瞑れば、なお一層鮮やかに甦る。湯を弾く玉の肌、生命そのもののように弾む乳房。湯煙の中で妖しく揺らめく若萌。
二つの肉体。他人の顔。ミズエとコズエ、この一卵性の双子は、顔を除けば、総てが一つ、同じ乳房、同じ女性器に、一つの心を持っているのだろうか?
邪念を振り払って原稿に向かうのだが、無駄な抵抗だった。夜の静寂の中では、コズエの魔性に勝てる勇気も、強い精神力も、残念ながら私は持ち合わせてはいない。
窓の外の暗闇で二つの光る目が浮かんでは消えた。その光が誘ったのか、東の空がようやく白み始めた。
海は大きくうねっていた。
海岸通をジョギングする女性がいた。
新聞配達の少年がいた。
少女が自転車で牛乳を配っていた。
お宮の松の陰で、黒メガネの男が海を眺めていた。
風が囂々と鳴っていた。
波が坂巻き、海が荒れていた。
重く垂れ込めた雲を裂くようにして朝日が射し込んで来た。と思うと、見る見るうちに鮮やかな朝焼けが熱海の海に現れた。
朝焼けに誘われて、私は海岸通りを散策し、岸壁に凭れて海を眺めた。
桟橋の先で、紅白の布が風にはためいてクルクルと舞っていた。目を凝らして見ると、それはコズエが舞っていたのだ。白衣に紅袴、紗の長い肩布を靡かせ、鈴を鳴らしながら、三度回って旭日を拝祈している。
神を降ろしているのだろうか?
神懸かりの儀式なのだろうか?
それとも何か呪詛しているのだろうか?
コズエは跪いて敬虔な祈りを捧げている。
祈りが終わったかと思うと、踊るようにしてその場で跳ねた。
まるで十メートル程も跳ねたように私には見えた。旭日に向かっていたコズエの身体がゆっくりと回転しながら空中を漂っている。紅白の肩布がまるでコズエの宿命を縛り付けるようにして、風にはためきながら彼女の肉体を、細頸と腰に巻きついていった。華麗で可哀想な蝶の標本のように見えなくもなかった。
朝日を受けて黄金色に虹んでいたコズエは、まるでスローモーションのようにして片膝をついて着地し、瞑想していた眼を瞬かせながら開いて行く。極鮮色に煌めく閃光が拡散していた。
コズエは大きな眼を見開くといきなり走り出した。私を見つけたのだ。
黒メガネの男が慌てて松の陰に隠れた。海を眺めていたのではなく、コズエの様子を窺い、ずっと見つめ続けていたに違いない。
「鬼太郎は一体 いつ寝るの?」
初めはセンセイ、次が鬼太郎さん、夜が明けたらもう鬼太郎と、遠慮なく呼び捨てにする。
「鬼太郎!」
一声高く叫んで、
「おはよう!」
今度はひどく無邪気に笑った。その美笑が顔一面に広がって行く。目眩ましにあったように私の意識が、ただでさえ寝不足で朦朧としていた私の意識が混沌とした。その後のことは藪の中、私はただ、波間に漂う小舟のように夢を流離った。
巫女、神子とも書き、巫などとも言う。
有る意味では、コズエこそ真の巫女に相応しい娘だった。その時、小学校高学年程の学力さえ持ち合わせていなかったが、北から南、西から東へと、彷徨ボヘミアンの旅芸人の娘に生まれてしまったのだから、それはコズエの罪では無い。
何を見ても、何を教えても、必ず一度で憶えた。興味をひくと、全てを知り尽くすまで、目を見開いて見続けて飽きない。グルグルと廻り、あらゆる角度から知ろうとする。コズエの目がことさら大きく感じたのは、きっとその所為だ。
対してミズエは、やはり同じ様な能力を持っていたのだが、コズエに較べて余程控え目で、他人に対して閃かす事など決してしない。
初め、この娘は精神薄弱気味か、或いは口か耳が不自由なのかと、錯覚した程喋らないのだ。何を言おうとしても、慎重に考え、言葉を選んでいる内に、機会を失ってしまうのだ。
コズエは生まれてくる時代を間違えたのかも知れない。もしも、前世と言うものが有ったなら、栄耀栄華を誇った民族の王女であったに違いない。私はコズエを戴く民に生きることを望み、夢見るだろう。現にそんな夢を見た。
神殿に祈るコズエがいた。
傍らに雄々しく佇む王がいた。
夥しい数の民がコズエを拝んでいた。
民衆の歓呼の中を征戦につく大軍が行進していた。
夢の中で、私は王では無かった。将軍でもなく、兵士でもなく、民でも、奴隷でさえなかった。
泥田の畦に咲く、名も無く見窄らしい花でしか無かった。例え召使いでも奴隷でも良い、人というモノに成りたい、麗しいあの娘を、人として拝んでみたい。焦がれるように望んでいた。
そんな私の心をからかうかの如くに、蝶が舞っていた。
望むが良い。願うが良い。
例え花でも虫でも、生命有るものは皆、望めば人になれるのだ。生命に貴賤は無い。
蝶がそう囁いて私を唆すのだ。
白く大きく棚引く雲から、太陽が燦々と輝いて、花である私を照らした。
そこで私は目を覚ました。
窓から眩しいばかりの陽が射し込んで、私の顔を照らしていたからだ。
もう午後一時を過ぎていたので、惜しい気がしたものの、跳ね起きて、頭から水を被るようにして顔を洗い、目を覚まさせた。
原稿に向かった私の筆は、不思議なほどスムーズに動き、一気に構成を書き上げた。
五 太公望
胡蝶一座の稽古は、朝十時からの二時間ばかりと、午後二時から夕方までの四時間だった。稽古は順調に進み、週末を待たずにほぼ完成した。
この日も午後の稽古を見に行こうとした時、キッチンの隅で釣り竿を見付けた。
私は稽古はやめにして、桟橋で釣り糸を垂れる事にした。もはや、稽古で私がすることなど何もないのだ。
晴れ渡る青空に、紺碧の海、まだ二月だというのにポカポカと春のようだった。
釣り糸を垂れながら、一応ウキの辺りを眺めてみる。実は、ウキなど見る必要はまったく無いのだ。私の針には餌が付けてないのだから。魚を釣るのではなく、釣りそのものが目的なので餌など必要無い。
小さい頃からこんな具合にして釣りを愉しむのが好きだった。とてつもなく贅沢な趣味、と私は自認している。実際、こうして海面を眺めやっていると、不思議に心が落ち着き、様々な想念が沸いて来る。
小魚が海面付近に群れて遊び、春の陽に照らされてキラキラと煌めいている。
私は海面を心の鏡にして、ミズエを想った。記憶が甦り、私の想念と混じって、その鏡に像を結んだ。ミズエが微笑んでいる。その微笑みが水面に揺れて散った。
ミズエの面影が、小魚の群の集散とともに、現れたり消えたりするのだ。
ミズエが現れ、また消えた。再び現れたかと思うと、それはコズエだった。いつの間にかコズエが私の傍らに佇んでいたのだ。
「鬼太郎は釣りが下手ネ。一時間以上経っているわ」
ミニスカートのコズエが私の左に座った。
「私、手伝ってあげる。きっと釣れるわ」
「それは無理だろう?」
「大丈夫、まかせて」
海面に向かって垂れるコズエのサンダルが外れそうだ。だが決して落ちなかった。まるで体の一部のように、際どくも足と繋がっているのだ。
「ずっと見ていたの?」
「まさか、あたしじゃないわ」
その時、奇跡が起きた。
餌のない釣り竿で、魚がつれたのだ。
ほんの数メートルしか離れていない所で、ミズエが立って私を見つめていたのだ。
「お早う。・・・稽古は終ったの?」
ミズエに声を掛けたのだが、
「午後の稽古、今日は休みになったの」
コズエが答えた。
サブリナパンツのミズエ、今日は髪を編み込んで頭の上で束ねている。そんなミズエが躊躇いながらも、おずおずと近付いて来る。
私は下駄を揃えてミズエの足下に置いた。
「座ったら?」
「有り難う」
歌と台詞以外でミズエの言葉を聞いたのはそれが初めてだった。
「岸壁に座るのなんてミズエには無理かも」
「どうして?」
「水が怖いの。私たち全然泳げないの」
「コズエは怖くないの?」
「わたしは平気、怖いものなんかないわ。沢山人もいるし」
コズエが私を覗き込んだ。
「喜太郎泳げるのでしょ」
「ああ、そこそこ、にはね」
コズエがミズエを振り返って言った。
「大丈夫。落ちたって喜太郎が助けて呉れるわ」
迷っていたミズエが私の右隣にそっと腰を掛けた。そよ風が私の右頬を掠め、梅の花の香りが漂った。まるで佐保神のような、なんて爽やかな娘なのだろう。
私は、珍しくも長い髪を束ねたミズエの項を見つめた。が、有るかもしれないと期待していたホクロは見当たらなかった。
ミズエの頬が微かに膨らんで、唇が僅かに開こうとしている。何か私に言いたいのだろうか?
私はミズエの言葉を待ち望んだ。
「釣れたらいいネ。きっと釣れる。私が祈ってあげるから」
こう言って、コズエが海中のウキの先を凝視している。
「ムリムリ、餌なんかついてないのだから」
ミズエの耳元でそっと囁くと、ミズエが驚いたように私を見つめ、コズエはムキになって、更に海を凝視し、何やら呪文を唱えた。
私はミズエの顔を覗き込むようにして微笑みかけた。
「ホント?・・・本当に餌がついていないの?」
「ホントさ」
「でも、引いているわ。ホラ!」
ミズエの指さす先でウキがピクピクと動いている。
慌てて竿をあげると、小さな小生意気なフグが針に掛かっていた。
指で軽く腹を弾くと、プーッと体が膨らんだ。
「まるで、コズエちゃんみたいだネ」
クスッと笑ったミズエが大きく頷いた。
「かわいそうだから今度だけは許してあげよう」
と言ってフグを海に放すと、今度は、フグに例えられたコズエの頬がプーッと膨らみ、私から視線を外した。その項にホクロが三つ、まるで梅の花のように息づいていた。
その後二人は私のアパートについてきた。
自慢のオーディオセットの正面に座ったミズエが、マッキントッシュ(オーディオアンプ)のエメラルドグリーンのロゴに魅入っている。
コズエは立ったまま、遠慮なく部屋中を見回している。
コズエの視線が隅のバイオリンケースの上に止まった。
「鬼太郎のバイオリンが聴きたい」
「中は空っぽ。・・・ただの飾りさ」
「お願いだから聴かせてよ」
「本当に弾けない」
コズエの目がキラリト光った。意味ありげに微笑んでいる。
私はコズエを無視して、バド・パウエルの『クレオパトラの夢』を選んでターンテーブルに乗せた。エアダスターで埃を吹き飛ばし、静電気を除去した後、鹿皮のクロスで丹念に拭い、アームを盤に運ぶ。いい音で聞くための儀式のようなものだ。
軽快にスイングするパウエルのピアノが飛び出して来た。
やっとコズエが腰を下ろし、ミズエを少し端に追いやって、私がミズエの為に用意した特等席を独占した。
バド・パウエルのクレオパトラの夢を聴きながら、
「パウエルは凄いパラノイア、偏執病に掛かっていて、躁の時と、鬱の時の差が酷かった人でね、黒人プレーヤーとしては当然のように麻薬に溺れた。好不調が激しくて、このレコードを吹き込んだ時も酷い状態だったと言われている。だから、ミスタッチがかなり目立つ」
コズエもミズエも良い耳を持っていた。私の解説に見事に反応した。正直私には良く聞き分ける事が出来なかったのに、ミスタッチを殆ど見つけては顔を見合わせて頷き合っている。
「そんなモノを跳ね返すような、唸るような熱演で、パウエルで一番好きだな、この演奏」
二人とも初めて聴くジャズの、それも飛び切りの名演にかなり興奮していた。
この姉妹のように、耳が良く、感性の豊かなリスナーを手に入れるなんて、オトキチ冥利に尽きるというものだ。
私は次々と秘蔵の愛盤を掛け替え、二人は夢中になって聴いてくれた。
そして今、グレン・グールドのバッハを聴かせているところだ。
この日から、ミズエもコズエも、たびたび私のアパートに入り浸った。
それは良いのだが、意外な付録、小道具係りの健一という若者まで仲間に加わって来たのは余り有り難く無かった。健一は漁師の息子だがグレートホテルでアルバイトをしていた。いつもジーパンに半袖のТシャツ、真冬でもペラペラのジャンパーを羽織るだけだったらしい。
コズエと健一は出来ていた。というより、コズエが健一を子分か家来のように従えている、つまりバシリと言った方が正しいのかも知れない。
2016年11月29日 Gorou