アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

Kozue(胡都江)~Twins of Formosa Ⅰ

2016-11-28 17:57:56 | 物語
Kozue(胡都江)
~Twins of Formosa

 
一 胡蝶

 あの時私は、
 神のように美しく、
 胡蝶のように儚い、二人の娘に出逢った。

 出逢いは突然やってきた。
 私一人のエレベータに、嬌声を上げながら胸元をセクシーに覗かせた一羽の華麗な胡蝶が舞い込んできたのだ。と思うと、爽やかな風が湧き起こり、一面を梅の花香で充たした。
 続いてもう一羽。こちらの胡蝶はチャイナドレスを身に纏い、しずしずと、ゆっくりと、大股で入って来た。
 なんて美しいんだ! まるで神のようだ。
 二人は、それぞれに私をチラッと盗み見、顔を見合わせて微笑んだ。私が何者なのかを知っているようだ。
 出逢いの場所は熱海グレートホテル。お宮の松で有名な、熱海の海岸通に有った。私はこのホテルのショーの舞台監督として雇われて来たのだ。
二人はこのホテルで三月から興業する、女剣劇・市村胡蝶一座の娘で、姉が湖都江(ミズエ)、妹が胡都江(コズエ)という名の一卵性双生児で、十八になったばかりだった。
コズエは思い切ったショートカットで、目鼻立ちのハッキリした丸顔で大きな輝く鋭い眼を持っていた。例えれば、京都三十三間堂の千手観音、そのどの顔ともどこか似ていた。観音が怒りを発し、カッと眼を見開いたらこんな面相に成るに違いない。
姉のミズエは、肩までの長い髪、細面の瓜実顔で、キリッとした切れ長の美しい眼を持っていた。広隆寺の弥勒菩薩を思えば良いかも知れない。
 この美しく華麗な姉妹はまるで他人の顔を持ち、それぞれの個性を限りなく発散していた。顔も目も、身に着けている物も、何から何まで正反対だったのだ。
 
 コズエの胸元が微かに乳首を残して私を誘惑している。
 私は目のやり場に窮した。胸から眼をはずして視線を下げれば、ドレスからはみ出した太股が私を誘う。恥ずかしながら狼狽の極みに達した。気を静めようと瞑想して深呼吸を、一度、二度、三度と重ねてゆっくりと目を開けた。姉妹の視線が私に集中していた。ミズエは涼しげに、コズエは挑発するように微妙な微笑みを浮かべていた。
 思い切って私はコズエの顔を直視した。
 そのコズエは三角の鼻眼鏡の上から瞬きもせずに私を見つめていた。
 こうやって、この娘は私をずっと見ていたのに違いない。
 ピンクのルージュから白い歯が零れた。
 絶えきれずにコズエから目をそらして、今度はミズエを見た。
 目を伏せて慎ましやかに立っているミズエ。私はこんな娘が好みだ。
 ミズエはチラッと私を見て、直ぐにまた目を伏せた。その美しい顔が忽ち薄紅色に染まった。
 その業務用のエレベータが八階に止まり、ミズエが取り澄ましながらも小走りに出、コズエが従った。
 エレベータから足を踏み出した私は眩い陽光に目潰しを喰らって立ち竦んでしまった。
 天井から床までの大きな窓から差し込む、春の日射しに身を晒してしまったのだ。腕で陽を遮ると、ようやく視界がはっきりとして来た。
 陽溜まりの中で、コズエが私をみつめていた。
ゆっくりと、ゆっくりと、スローモーションのように後ずさりしていくコズエ、時の流れが止まったような錯覚に襲われた。壁と柱と、うずたかく積まれた膳部が創る暗闇に紛れて、コズエの姿がフッと掻き消えた。
 闇の中で、コズエが囁いた、
「ハヤク! みんな待っていてよ」
 ハッキリと聞こえた。いや、聞こえた分けで無く、心で感じたのだ。テレパシーかも知れない。コズエという娘は不思議な能力を持っていたのだ。人の心を掴み、魂の芯に語り掛ける。
 暗闇の中で、コズエの目だけが美しくもキラキラと光っていた。

  2016年11月28日  Gorou

モーツァルトの不思議なオペラ、魔笛

2016-11-27 04:21:19 | クラシック音楽

 魔笛はモーツアルトの最高傑作と称されながら名演奏・名舞台の少ない
オペラです。その謎に迫ってみます。
 魔笛の謎といえば、誰もが三つの試練、三人の侍女、三人の童子、など
にかかわるフりーメンソーの事だとお思いでしようが、日本人の私に分かり
ませんし、語る資格も有りません。ここで言う謎というのは、冒頭で指摘した
ように、最高傑作で有りながら、極端に名演奏が少ないんです。オペラの重要な
要素は、指揮者、オーケストラ、合唱団、歌手、演出(美術・衣装も含めた)ですが、二つ位の要素が90点だったとしても、必ず50点以下の部分が出てしまいます。それだけモーツアルトが偉大で、魔笛の上演は難しいという事なんでしようね。
 私が観たり聞いたりした数少ない魔笛(それでも十数個にはなります)では殆ど
演出で躓いていました。
 私が最初に感動した魔笛は、イングマール・ベルイマンの映画でした。
 序曲が始まりました。わたしはそこで初めて、こみの序曲が名曲だと言うことに気付かされました。すでにベルイマンの魔術が始まっていたのです。カメラは序曲の間中観客のアップを追い続け、たびたび可愛らしい少女の顔を映し出します。
希望に胸をときめかせて目を輝かせる少女。私はその顔を未だにはっきりと覚えています。死ぬまで忘れないでしょう。
 以来、私は魔笛を観ると、どうしてもベルイマンと比べてしまい、満足した事
が有りません。大蛇が気に入らなかったり、魔笛に併せて縫いぐるみが踊るのが馬鹿馬鹿しくなったり、ザラストロが崇高過ぎたり、夜の女王の悲鳴に悩まされたりしました。
 次に感動したのは、、ケネス・ブラナーの魔笛です。不思議な事にこれも映画ですよね。この作品でもまたまた序曲、奇跡の和音とともに映像がフェードインし、空と雲と蝶、渡り鳥や兎、そこへ戦争の不安が忍び寄ってきます。驚いた事に、序曲の間中ワンカットの移動撮影で通してしまいました。このプロローグだけで十分です。後は観ないでもいいとさえ、その時は思いました。
 観る前、私はどうせ期待はずれだろうがとりあえず観てみようか、という軽
い気持ちでしたが、本当に期待を外されてしまいました。ザラストロの慈愛に
満ちた目、悲しみを秘めた夜の女王、パパパパパパパ、パ、パパパパパパパ、パ、とにかく楽しませてもらいました。ケネス・ブラナーの演出が良かったです。
 この魔笛を観て気がつきました。魔笛は演出主体で創られるべき作品だと。
 どうしてもオペラは指揮者と歌手に重点が置かれてしまうのです。魔笛の上演を成功させるには、優秀な演出家を起用するべきです。
 
 一つ分からないシーンがあったのですが、どなたか教えて居たた゜けませんか?
 無数の墓標を前にしてザラストロが歌います。墓標に刻まれた若者の名前、三分の一が日本人だったのです。第一次世界大戦でこんなに日本の若者が戦死した筈が有りません。もしかしたら、神風か回天なのでしょうか? 結局未だに分かりません。
 ブレゲンツ音楽祭2013で魔笛が上演されました。湖畔の幻想的な舞台設定で、少し日本を意識したような演出でした。これは面白かったですね。
 もし、モーツァルトが東アジアの神秘に包まれたジパングを知っていたとしたら? 面白いですよね。誰かモーツァルトに聞いてくれませんか。

ベルイマンのお薦め映画。
 処女の泉。第七の封印。野いちご。ファニーとアレキサンドル。
 鮮烈だつたのは処女の泉、はまったのは第七の封印、結局この二作品は未だに理解しているとは言えません。いま考えてみると、野いちごが一番良かったのかも知れません

ブラナーのお薦め映画。
ヘンリー五世。ハムレット。愛と死の間。フランケンシュタイン。
 ブラナーはやはりシークスピアです。ハムレットは四時間を超える大作で少々疲れてしまいますが、ヘンリー五世はシェークスピアとブラナーが好きなら是非観て下さい。DVDは廃盤に成っているようです。変わったところで出演作(主演では有りません)のスウィングキッズ、ジャズ好きなら必見です。
 最近のブラナー、余り感心出来るとは言いがたいですね!? アメコミの実写化やシンデレラ等々です。
2016年11月27日 Gorou and Sakon

ベルリンフィル東方見聞録。

2016-11-27 03:40:06 | クラシック音楽

旅人から旅人へ…
語り継がれて来た文化。

 昔、一人の旅人がアジアを訪れてその紀行を遺した。
 彼の名はマルコポーロ、その紀行が東方見聞録。
 そして、2005年十一月、世界最高峰と称されるオーケストラ、ベルリンフィルが音楽探しの旅へと飛び立った。北京、ソウル、上海、香港、台北、東京、アジアの大都市をへ巡りながら調和と理想を探し、或いは混沌と幻想から逃れる為の旅でもあった。

 ベルリンフィル2005年アジアツァーがドキュメンタリー映画として公開され、DVDで発売されています。余りにも素晴らしいので紹介したいと思います。
 この作品の日本語タイトルは、「ベルリンフィル最高のハーモニーを求めて」ですが、このハーモニーは必ずしも音楽的なハーモニーでは無く、演奏技術と心、楽団と聴衆、旅人と現地の人々と、色々な意味での調和をさしています。

 オープニングは入団テストの光景からです。
 四人の若者がテストを合格しました。ピッコロのレベルさん、パーカッションのヘーガー君、ビオラのアフカム君とネーマー君です。彼らの試用期間の最後がこのアジアツァーなのです。
 ベルリンフィルへの入団はテストも合否の結果も楽団員達で行うのが伝統となっています。少しベルリンフィルを知っている方なら、入団テストであのザビーネ・マイヤー事件を思い出すのでは? カラヤンがザビーネ・マイヤーという美人クラリネット奏者を強引に入団させようとして楽団員から猛反発をくらい、マイヤーは退団、カラヤンもベルリンフィルの終身指揮者から降りてしまいました。その直後にカラヤンは亡くなりました。なぜ反発したのか? 一説には当時は女性奏者を受け入れないのがベルリンフィルの慣習だったと言われています。今では考えられませんよね。この事件に関しては、私はカラヤンを支持し、珍しくもカラヤンの慧眼に感服しています。ザビーネ・マイヤーは退団後めきめきと評価を高め、少なくとも女性クラリネット奏者としてトップに立ちました。彼女の演奏を見たいと思う人は、アバドとルーツェルン祝祭管弦楽団のDVDを探して下さい。私の記憶ではそのすべてに参加して、素晴らしい演奏を魅せています。

 このドキュメンタリーではライブが主では有りません、むしろリハーサルと告白(インタビュー)、それぞれの都市での見聞録が主になっています。

 カメラと彼ら(ラトルと楽団員)は見詰める、雑踏と安らぎの広場を、急速な進歩に戸惑う人々を、変わらぬ伝統と文化と祈りを。そして彼らは、まるで神の御前で懺悔するかの如くに告白を続けます。
「十代の頃はただの変わり者でした」
「人前でろくに話が出来ませんでした。私を救ってくれたのがオーボエです」
「芸術家になんかとてもなれない私」
 落ちこぼれだった彼らがベルリンフィルと関わる事で英雄になったのです。
 誇りと情熱と不安と恐れが彼らを苛む。そして同行した候補生、四人の若者達は希望よりも不安を抱えながら平静を装い、無邪気に戯れる。
 クラシック音楽の世界ではいわば英雄である筈の彼らが、殆どが落ちこぼれの劣等生であった事が淡々と語られて行きます。音楽が彼らを救い、外界とのコミュニケーションを果たすのです。

 演奏曲目が印象的で何かを暗示しているようでした。
○ ベートーベン 英雄
 ナポレオンの為に作曲されたと言われていますが、英雄とはベートーベン自身かこの曲を演奏する奏者なのではないでしょうか?

○ リヒャルトシュトラウス 英雄の生涯
 交響詩の代表作。英雄とはシュトラウス自身とも言われているが、この映画の中では、フィルハーモニーの楽団員(指揮のラトル、四人の候補生も含めて)達である。

○ トーマスアデス アサイラ
 ラトルが音楽監督をしていたバーミンガム交響楽団委託により作曲された現代音楽。
 アサイラとは、隔離病棟と保護地区という二重の意味だそうです。とても美しい曲で、混沌とする現代社会から隔離された、或いは保護された安らぎを感じさせます。
 ラトルは度々取り上げており、五年もすればスタンダードになりうる曲です。
 この三曲はライブよりもリハーサルとバツクグラウンドでより多く紹介されて行きます。ラトルも楽団員も候補生も旅を続ける中で次第に高揚し、理想に近づいて行きます。
 
 カラヤン、アバド、ラトル。ここ半世紀のベルリンフィルの芸術監督である。この三人の音楽へのアプローチと演奏スタイルは随分違って見えます。
 まずカラヤン、恐らく一番著名な指揮者である。ベルリンフィルを徹底的に鍛錬して世界最高峰のオーケストラに育てた。とされるが、そうだろうか? 大戦前からフルトヴェングラーの時代まで、ベルリンフィルは既に最高峰のオーケストラでした。カラヤンの時代にベルリンフィルに何が起こったのだろうか? この時代、ベルリンフィルは最高のパフオーマンスを見せてくれましたが、けっして最高のアンサンブルを聴かせては呉れませんでした。アンサンブルという意味では、当時のベルリンフィルは世界の十指に入っていたかどうか疑わしいものです。
 カラヤンの指揮は目を瞑っていますよね、集中力を高める為だと言われています。ある指揮者が「あれは完全に暗譜していることを誇示しているだけさ」と批判していましたし、当時の三人のトップソプラノが対談で、「カラヤンは目を瞑っているうちに何処を演奏しているのか分からなくなり、ただ手をクルクル回していました」。その一人がカラヤンにその事を抗議したそうです。彼女は十年間ベルリンフィルとカラヤンからお呼びがかからなかったそうです。だいたい完全な暗譜など演奏のクォリティーにどの位影響が有るのでしょうか? 写譜をするのとは違うんですよ。カラヤンの演奏スタイルはカラヤンとオーケストラをかっこよく見せる事で、良い演奏を聴かせる事ではなく、素晴らしい演奏を聴かせて上げる事でした。その為の小賢しい小細工をしています。たとえば低弦奏者の数を増やし、ほんの少しだけ先に音を先行させていたそうです。カラヤンの演奏は重厚で分厚いんです、まあ質の良い映画音楽だと思えば良いのではないでしようか?

 カラヤン批判に思わず夢中になってしまったので、後の二人は簡単に述べます。
 アバドのアプローチは宗教的です。生への感謝と神への祈りに満ちているのです。まるで空を目指しているように感じます。ベルリンフィル時代はそれほど感じなかったのですか゛、癌を克服して再起した後のルーツェルン祝祭管弦楽団との演奏で顕著になりました。マーラーの復活と七番、モーツァルトのレクイエムを聴いて下さい。私の意見に賛成していただける方が結構いると思いますよ。さて、亡アバドとルーツェルン祝祭管弦楽団の事は改めて書きたいと思っています。
 ラトルのアプローチはアバドと比べると哲学的です、アバドは空をめざし、ラトルは無をめざして宇宙と一体とならんとしているのです。

 すこし余談になりますが、今最高のパフォーマンスを見せてくれるオーケストラはベルリンフィルとルーツェルン祝祭管弦楽団だと私は思っています。二つのオーケストラはしなやかでやさしく芳醇の香りを届けて呉れるんです。特にルーツェルン祝祭管弦楽団はピアニッシモが美しいんです。至福の音楽を届けて呉れるんです。ベルリンフィルのモーツァルトとルーツェルン祝祭管弦楽団のマーラーを是非聴いて下さい。
 それにしても、アバドを失ったルーツェルン祝祭管弦楽団はどうなってしまうのでしょう。しんぱいですよね!

 ベルリンフィルのアジアの旅は台北でクライマックスを迎えます。会場の三千人と屋外スクリーン前の三万人とベルリンフィルとが一体となった素晴らしい演奏を完成させたのです。ラトルとベルリンフィルは、この時英雄になりました。
 野外の大観衆の前に出てきたラトルとベルリンフィルは熱狂的な歓迎を受けます。まるでロックの英雄を迎えるような熱烈な歓迎です。かってクラシック音楽家がこのような歓迎を受けたことがあるでしようか?!

 無を極め、宇宙と一体となった演奏を携えて、彼らはツァーの最終都市東京を訪れました。東京のライブをご覧になれた人は幸せですね、本当に羨ましいと思います。どうか、この時の演奏をDVD化して下さい、節に節にお願いいたします。

 ピッコロのレベルは去り、パーカッションのヘーガー、ビオラのアフカムとネーマーは残り、そしてラトルとベルリンフィルはアジアを去りました。去ったレベル、残ったヘーガー、アフカム、ネーマー、四人の候補生、ラトルとベルリンフィ、旅人達(異邦人)は訪れた六都市(アジア)の文化を語り続けて呉れるに違い有りません。

 クレジットで蝶の戯れる映像が夢のように被さります。クレジットからライブに戻りましたが、一羽の蝶がひらひらと舞ながら下手から上手へと飛び去ります。
 監督のトーマス・グルベは壮子の胡蝶の夢を知っていたのでしようか?
 最後に四人の候補生、ラトルとベルリンフィル、そしてトーマス・グルベとスタッフに荘子の胡蝶の夢を贈ります。

「昔々、荘周(そうしゅう、荘子の事)は夢で胡蝶となる。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩みて志に適する与(かな)。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則遽遽然(きょきょれぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為(た)るか、胡蝶の夢に周為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此れを之物化(これぶっか)と謂う」
2016年11月27日 Gorou &Sakon

ありがとう、『すべてのちいさなもの』

2016-11-25 14:52:14 | ポップス
ありがとう、『すべてのちいさなもの』 先日、初めてELTと持田香織のライブ映像を視聴しました。ELTの曲を十曲 以上、集中的に観たので何故か話したくなりました。 EVERYLITTLETINGとは、言い得て妙なバンド名ですね、あきれるほど、全 てにおいて特別な物は有りませんでした。持田香織の歌は、たとえば安室 奈美恵のようには上手ではなく、シャウトしてもとても浜田麻里には適わ ず、歌声もMAYJ のように美しくは有りません。 しかし、不安定な音程諸々に関わらず、何故か心が安らぎ、安心感と不思 議な感動をあたえてくれるのです。どうして? わかりません。多分彼 女は己を良く知っていて、彼女なりの持って生まれた感性を磨いてきたか らに違いありません。彼女は必要以上に熱唱することも、感情を込めすぎる ことは決して有りません。  普段は殆どクラッシックを聴いている私に、持田香 織を語る資格が無いことを知りつつ、筆を取ってしまいました。すいま せん、でも有り難う、むしろ好きです、ちょっとファンになりました。 2016年11月25日    Gorou

千三百年以上前にあった大東亜戦争 白村江、ハクスキエ、あるいはハクソンコウ

2016-11-24 10:53:42 | 日本古代史
千三百年以上前にあった大東亜戦争
白村江、ハクスキエ、あるいはハクソンコウ

 皆さん、大東亜戦争って知っていますか? 
 第二次世界大戦、太平洋戦争、こう言われれば殆どの人は知っていますよね。東アジアの大きな戦争、つまり大東亜戦争は、アメリカが参戦する前の呼び名なんです。戦場は東シナ海、朝鮮半島、満州平野、中国大陸での大東亜の覇権・利権争いと理解して下さい。

 大日本帝国陸軍が一方的に仕掛けた侵略戦争と言われています。エッ!海軍は違うの? そうです海軍は余り乗り気では無く、むしろ不戦論が主流を占めていました。これは陸軍と海軍の歴史を維新戦争の頃までさかのぼらになければ説明出来ません。いずれ機会を改めてお話ししたいと思います。

 この大東亜戦争、初めてじゃ無かったんです。千三百年以上前の西暦693年に白村江(現:錦江近郊)というところで起こっています。これを私は第一次大東亜戦争と言っています。
 百済救済、というよりは再興の為に大和朝廷が派兵しました。もう滅亡した百済国の為にですよ、それも大唐帝国と新羅の連合軍に対してです。少し変ですよね、理由を憶測すると?
 一つは百済が滅ぼされ、高句麗も唐と挟撃されて風前の灯火でした。次は自分の番だと恐怖にかられた事です。そんな懸念は必要無かったんですけれどもね。なんて事は今だから分かることで、当時は恐れたとしても仕方が有りません。

 少し前までは朝鮮半島の三国の中では新羅が一番劣勢だったんですが、高句麗遠征(これは隋時代からの中国の念願でした)に意欲を燃やす唐と結びました。まず西の百済を唐を滅亡させ、次に高句麗を滅ぼそうと狙っていたのです。

 もう一つは、大胆にも、日本は朝鮮半島征服に意欲を燃やしていたんです。この時代に限らず、日本の統治者たちの意識には、朝鮮半島を統治したいと想いが常に有ったんです。後世、老いの為に錯乱した秀吉が、信長の遺志を継ごうと思い込んで朝鮮に無体な侵略を仕掛けて泥沼にのめり込んでしまいました。

 信長の意識には朝鮮征伐というのは無く、むしろ明まで攻め込んで、アジアの覇権を掌中にしてヨーロッパ列強の侵略を阻止しようという思いがあったようです。西から攻めようが、東から攻めようが侵略は侵略なんですけれどもね。大東亜文化圏の覇者となる願望が帝国陸軍に引き継がれてシナ事変、朝鮮侵略、満州建国と、暴発してしまったという訳なんです。


東アジアの歴史は扶余と靺鞨の相克の歴史である。と言っても差し支えが有りません。

 扶余も靺鞨もツングース系の民族で、時の流れの中でその名前を様々に変えて呼ばれて来ました。

 現在の民族名で表記すると、扶余が朝鮮(ちょそん)族、靺鞨が満州族という事になります。ともに中国の東北地方の扶余というところを民族の起源としています。多分、元々は同じ民族で、支配者階級が扶余となり、隷属民・庶民が靺鞨となったと思われます。

 扶余(場所)は非常に気候的には厳しい所で、扶余族も靺鞨族もより温暖な土地、ユートピアを求めて南下して行きましたが、万里の長城と中華帝国に阻まれて、中国には入れず、長城を迂回せざるを得ませんでした。そして、ともに一部の人々が日本列島にたどり着き、列島の先住民・縄文人と混血したり、協力し合ったり、残念ながら征服したり迫害したりしながら、日本という国を創ったのです。日本人には扶余と靺鞨の血が入っていると言うことになります。大まかに言えば、西日本に扶余の血が濃く、東日本には靺鞨の血が濃いと考えられます。

 夷狄という言葉が有ります、元々は扶余と靺鞨を指していたとも考えられます。中華帝国の北に居る蛮人を北狄と言い、東に居る蛮人を東夷と呼ばれていました、夷狄という言葉は、必ずしも特定の民族を指すものでは有りませんでした。魏志倭人伝でも分かるように日本も東夷の一つだった訳です。

 扶余国は西暦494年に滅亡しますが、扶余の遺族は朝鮮半島に高句麗、新羅、百済王朝を築きます、勿論三国だけでなく、多くの国を興していますが、この三国に統合されたのです。

 一方の靺鞨人たちは中華にも朝鮮半島にも入れず、いわゆる満州地方から現ロシアの沿海州にかけて続々と建国、とはいっても国家というより、部族といった方が正しいと思います。王というより首領に率いられていました。そくんな靺鞨の部族が七つあったと伝えられています。

 因みに、満州というのは元々は地名ではなく民族名が起源なんです。彼らは自分たちの事をマンジュと呼びました、文殊菩薩を信仰していたからです、満州族の英雄は皆文殊菩薩の化身と自らを言い、そう信じられていました。

 扶余を征服王朝のスペシャリストといいます。高句麗王朝、百済王朝、そして倭国などを建国したと考えられるからです。私に言わせれば、靺鞨の方が遙かに凄いんです。宋(正確には北宋、南宋はその後も存続)を滅ぼして、中華に金という帝国を築き、明を滅ぼして清帝国を築くのですから。金の建国英雄が愛親覚羅ワンガンで、清の建国英雄を愛親覚羅ヌルハチと言います。因みに、アイシンとは黄金という意味の満州言だそうです。

 話が前後してしてしまいましたが、古代に戻しましょう。
 朝鮮半島の三国は、虎視眈々と統一を目指し、今日の同盟国は明日の敵国という風な具合で、しかも、倭国までが任那の支配から征服を画策していましたから、私などには皆目様子が分からないんです。

 三国の中で一番劣勢だった新羅が大唐帝国に縋った事で、様子がガラリと変わってしまいました。高句麗・百済・倭国の天孫族系(天孫降臨伝説を持つという意味)連盟国と、卵性伝説を持った漢族・新羅連盟との戦いになったのです。話としては非常に分かりやすくなった訳です。私の言う第一次大東亜戦争の始まりです。

 新羅は627年に百済から攻められた際、唐に援助を求めましたが、内戦最中の唐は救援軍を送れませんでした。高句麗遠征にて高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで唐と新羅との関係が親密化し、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋は積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、更に両国の間は一気に親密化して行きす。

 大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まり。651年に左大臣巨勢徳陀子が倭国の実質的な首班となっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが採用されませんでした。

 660年、新羅よりの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置きましたが、すぐに百済遺民による反抗運動が興ったのです。
 660年に唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされたのち、百済の遺臣は百済復興の兵をあげ、倭国に救援を要請した。
 これを受けた倭国は、661年女帝(斉明天皇)自らが九州まで出兵しますが、崩御してしまいます。暗殺説も有りますが、68歳でしたから、お亡くなりになっても別に不思議は有りません。この女帝は中大兄皇子の母親で、皇子の十六歳の時に皇極天皇として、その後弟の孝徳天皇に譲位しますが、再び斉明天皇として重祚 します。名を宝姫皇女と言い、蘇我蝦夷との雨乞い合戦の勝利で有名です。

 皇極天皇時代にあの大化の改新が起こり、政の実権は中大兄皇子が握りました。女帝は祭事を担当していたのでしょう。

 この時代には日本特有の天皇制はほぼ確立されていた思われますが。一般庶民の間では天皇というより大王として認識されていました。

 天皇、すめらみことの意味を知っていますか? 統べる尊、だと思っている人が多いと思われますが、澄める、或いは清める尊と考える方が天皇の実体が分かりやすいんです。澄んだ清い心でお使えするお方なのです。


 さて、本題に戻りましょう。
既に主権を持っていた中大兄皇子母帝崩御の後、敢て即位せずに百済支援を続けます。
第一軍、一万余名。第二軍、二万七千。第三軍、一万余名。と伝わっていますから当時としては大変な大軍です。対する唐・新羅連合軍は一万二千程でしたから、勝てる戦だと思っていたのでしよう。だいたいこの一戦に勝ったとしても、後が持たないということが分からなかったのでしょうか。
 白村江の海戦で倭国は壊滅的な大敗をします。陸戦の方も大敗をして、命からがら日本に逃げ帰ったというわけです。

 唐・新羅連合軍の兵は殆んど女真族(靺鞨)だと伝わっています。倭軍も奴として徴用されていた靺鞨系の兵士が主力だと思われます。なんだか切なく、悲しいですよね。当時の東アジアの戦争はこんな具合に靺鞨と靺鞨が戦わせられていたんです。靺鞨兵は屈強で弓戦に優れていたんです。まさに最強の傭兵だったわけです。

 壊滅的な大敗を喫した倭国は北九州に水城や朝鮮式山城を築き、大野城と太宰府を設置して唐・新羅に対する防御線を引き、東国から防人を徴用しました。そして、朝鮮半島への野心をひたかくしにし、遣唐使を派遣するなどして唐との関係修復に勤めました。

 唐・新羅連合は次に高句麗征伐に取りかかり、668年遂に高句麗を滅ぼしてしまいました。

 新羅は念願の朝鮮半島を統一したのです。

 百済の貴族・知識者階級は悉くと言って良いほど倭国に亡命しましたが、高句麗の貴族は広大な満州に散り散りになりました。ある意味では故郷帰りかも知れません。

 唐の支配に対して、靺鞨と高句麗の遺族が独立戦争を興し、698年渤海国が建国されました。初代の王が大作栄(テジョヨン)、高句麗の貴族大氏を称していましたが、父親の名がコルコル・チュン・サンと言いますから、大氏を母に持つ混血だったのでは? と推測出来ます。

 この渤海国の支配者・知識者階級は高句麗の貴族が占め、庶民階級は靺鞨族が主でした。扶余と靺鞨が協力して建てた初めての国だと言えます。


 渤海は727年に日本に検使を派遣して来ました。以来、新羅への牽制の意味合いも合って、倭国と渤海は頻繁に使節を派遣し合います。遣唐使よりも遙かに多いんです。

 倭国、倭国と、何度も書いて来ましたが、八世紀になって倭国は日本と名乗るようになり、間もなく唐も文明国家日本を認めたようです。このことは、2004年に一人の遣唐留学生の墓碑が発見された事で明らかになりました。名前は井真成、日本国から来たれり、と墓碑に刻まれていました。日本という国名が記された最古の文献です。2005年の検唐史覧で里帰りした墓碑をご覧になった方もいるのではないでしようか。墓碑のレプリカが藤井寺市に保管されていますから、是非機会があったら観に行ってはいかがでしようか。

 奈良時代に入って初めて『日本』という文明国家と『日本人』という意識が生まれたんですね。反面、朝鮮人への蔑視も生まれてしまいました。日本の知識者階級の大半が百済系で占められたのですから、朝鮮(しらぎ)の悪口を散々言い、書いたのです。以来、日本人が朝鮮と言えば新羅を指すように成ったのです。

 815年、新選姓氏録(しんせんしょうじろく)という五畿内古代氏族の国勢調査のようなものが選進されました。皇別(皇族)、神別(天津神、国津神の子孫)、蕃別(渡来民)に分けられ、渡来系は326氏いたそうですが、新羅系の氏族は中国からの渡来民であると、殆どが届けたそうです。それだけ迫害が激しかったんでしようね。

 ところで、日本人って何なんでしようか? 日本人は存在しますが、日本族という民族は学問的にはいないんです。だから、「日本人が一番優れている」という第二次大東亜戦争を引き起こした認識は間違っているんです。学術的には日本族は朝鮮族の一種と言うことになります。血液の構成から考えると、朝鮮族、満州族、日本列島の先住民(縄文人)、南方系の渡来民などの混血なんです。

 個人的には、日本に住んでいる人の全てが『日本人』だと思います。肌の色や、宗教、文化の違いなど関係有りません。日本で暮らしている人の全てが日本人なんです。

 第二次大東亜戦争の反省も大事ですが、第三次大東亜戦争を引き起こさないように努力する事が一番です。その為には、出来るだけ偏見や差別意識を持たない事なんです。怒ったり罵ったりする前に、少しだけ相手の事を相手の立場に立って考えてみましょう。100パーセントの正義なんてあり得ません。それぞれの言い分があって、それぞれが正しいんです。日本と朝鮮の問題に絞って考えると、私たちが朝鮮の事を、チョウセンと発音しないでチョソンという発音を心がけるだけでも関係は少しだけ修繕出来るんです。東アジア全体で考えると、元々は同じ血が入っているんですから、なんとか仲良くやって行けないんでしようかねェ!?
    2016年11月24日 Gorou