世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

(^_^♪)杉田二郎の「戦争を知らない子供たち」

2021-09-25 17:14:28 | 連絡
〇うた(^_^♪)を歌って楽しく健康増進=介護の予防を目指しましょう。

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杉田二郎の「戦争を知らない子供たち」
 


(^_^♪)ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」

2021-09-25 17:08:25 | 連絡
〇うた(^_^♪)を歌って楽しく健康増進=介護の予防を目指しましょう。

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ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」
 


ゲンダイ砲、河野陣営に着弾か、総裁選初戦は河野陣営は党員・党友投票過半数未満41%か

2021-09-25 11:13:03 | 連絡
★ゲンダイ砲、河野陣営に着弾か、総裁選初戦は、河野陣営の党員・党友投票は過半数未満41%か、他陣営は2位3位連合岸田22%+高市20%=44%の勝ち馬乗り換えか>

「読売新聞が18~19日、党員・党友に投票先を聞いた電話調査では、①河野氏が41%、②岸田氏22%、③高市氏20%、④野田氏6%」
「選挙コンサルタント会社「ジャッグジャパン」の調査(22日時点)によると、自民党議員全382人のうち、投票先が判明しているのは258人。
①岸田前政調会長が91人、②河野氏80人、③高市前総務相66人、④野田幹事長代行21人だった。」

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「河野太郎氏が総裁選“急ブレーキ”の墓穴と誤算…ネットでバッシング激化し、討論会では集中砲火」
2021/09/24 14:30 日刊ゲンダイDIGITAL
選挙コンサルタント会社「ジャッグジャパン」の調査(22日時点)によると、自民党議員全382人のうち、投票先が判明しているのは258人。岸田前政調会長が91人、河野氏80人、高市前総務相66人、野田幹事長代行21人だった。当初、泡沫だとみられていた高市氏に詰め寄られている。
頼みの綱である党員票も微妙だ。読売新聞が18~19日、党員・党友に投票先を聞いた電話調査では、河野氏が41%、岸田氏22%、高市氏20%、野田氏6%という結果だった。河野陣営が最低目標にしていた50%にも届いていない。国民から人気がある石破元幹事長と小泉進次郎環境相がバックについたのに思ったほど伸びていない状況だ。
河野氏は1回目の投票で過半数を獲得。決選投票に持ち込ませず、一発で勝負を決める腹だったが、このままでは決選投票が濃厚だ。
「1回目の投票では、河野氏が1位で、2位と3位に岸田氏、高市氏の両氏がつけるとみられています。ただ、決選投票では『2位―3位』連合で、河野氏は逆転される可能性が高い。『2位―3位』連合を阻止するためには、河野氏は1回目の投票で党員票で他候補を圧倒するしかない。もし、6割程度獲得できれば『2位―3位』連合で逆転しようとしても『党員の民意を軽視するのか』と批判が巻き起こるはずです。逆に、5割を下回ると『2位―3位』連合に対して異論は出づらい。党員票で55%を奪えるかどうかが分水嶺になるでしょう」(自民党関係者)
さらに、ネットでの河野氏への「バッシング」も激化している。4年前のASEAN+3外相会議で、中国の王毅外相と河野氏が並んで毛沢東バッジをつけている画像=親中派がSNSで拡散。さらに、河野氏が過去、駐日米大使との会合の場で、尖閣諸島について「あんな石ころのような尖閣諸島で日中関係にひびが入るくらいならくれてやればいい」=親中派と発言したとの情報(注1、2)もSNSで流れた。
2)
<河野氏、親族企業の中国との関係「政治活動に影響全くない」
自民党総裁選に出馬している河野太郎ワクチン担当相は21日の記者会見で、親族が経営する企業と中国企業との関係性から、首相に就任した場合の中国政策への影響を懸念する声がインターネット上の一部で出ていることについて「私の政治活動に影響を与えるということは全くない」と明言した。同社株の保有についても「資産報告を毎回しっかりやっており、何の問題もない」と答えた。 また、尖閣諸島(沖縄県石垣市)をめぐり、約8年前に米オバマ政権時代に駐日米国大使を務めたジョン・ルース氏と面会した際、河野氏が「あんな石ころのような尖閣諸島で日中関係にひびが入るくらいならくれてやればよい」という趣旨の発言したという情報がネット上で拡散されていることについて、「ガセネタだ。フェイクニュースだ」と全面的に否定した。 
(注2)
自民党総裁選:無視できない河野太郎氏と「日本端子」の関わり

【朝香豊
<1964年、愛知県生まれ。私立東海中学、東海高校を経て、早稲田大学法学部卒。経済評論家。日本のバブル崩壊とサブプライムローン危機・リーマンショックを事前に予測し、的中させた。ブログ「日本再興ニュース」(https://nippon-saikou.com)は、冷静な視点で展開される記事が好評である。近著に『左翼を心の底から懺悔させる本』(取り扱いはアマゾンのみ)がある。
https://gendai.ismedia.jp/list/author/yutakaasaka

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の日本再興原論 No69】
日本端子は2021年3月決算で純利益として22億1300万円を計上し、総資産261億円、うち利益剰余金169億1700万円という優良企業である。非上場で出資者が10名のみというファミリー企業であり、河野家の資産形成に大きな影響を及ぼしてきた。大株主には河野洋平氏(58000株)、河野太郎氏(4000株)の他、恵比寿興業(24000株)の記載もあるが、恵比寿興業の代表は河野太郎氏の実弟である河野二郎氏である。恵比寿興業は競走馬の会社であり、これまた河野家のファミリー企業であるのは間違いない。 
日本端子は中国との関係が深く、早くも1995年に北京東方電子集団(現在の北京東方科技集団)との合弁で北京日端電子を設立している。外資系企業が中国に進出する場合には、中国の現地企業が51%以上の資本出資となるのが通例であるのに対して、北京日端電子は中国側の出資は40%にとどまり、日本側の出資が60%にも達していることがわかっている。ここには河野洋平氏の政治力が大きく影響していることが想像される。
また合弁相手の北京東方電子集団の董事長(代表取締役)である陳炎順氏は、同社の中国共産党委員会書記(トップ)でもある。陳氏は中国共産党創建100周年を記念して表彰された全国の「優秀党務工作者」300名のうちの一人であるだけでなく、その人物名一覧の一番最初に掲載されている人物でもある。この名簿は地域ごとに記載され、一番最初が北京から選出された7名であったことも関係しているのだろうが、それでも序列順位がものをいう中国において、実に興味深いところだ。

いずれも事実無根のようだが、「高市さんの支援者か、“原子力ムラ”の関係者が意図的に流したのでは」(永田町関係者)と囁かれている。河野氏は「ガセネタだ」「フェイクニュースだ」と大慌てで火消しに走るドタバタぶりである。
ビジョンが詰め切れていない
討論会では候補者3人から「集中砲火」を浴びている。打ち出している年金制度改革や原発政策について、「無理」「不可能」と攻撃されている。このままでは、さらに勢いがしぼんでいくのは必至だ。高千穂大教授の五野井郁夫氏(国際政治学)はこう言う。
「原発と年金を巡る河野氏の発言は、歯切れが悪い印象です。『核燃料サイクル』の否定は、事実上『脱原発』を標榜しているに等しい。ですが、一般の人には理解しづらい内容です。以前はハッキリと脱原発を打ち出していたのに、トーンダウン=脱原発派から離脱しているように聞こえます。年金制度改革についても、基礎年金の財源は“全額税負担”としていますが、消費税率をアップさせるのか、アップさせるなら何%なのか具体的な説明=低所得者切捨て論?がない。『再分配』を強く打ち出す岸田氏のビジョンの方が分かりやすいでしょう。出馬表明当初の河野氏の支持は高かったですが、訴えが中途半端では失速するのも仕方ない。今後も支持が離れていく可能性があるでしょう」
たとえ中身を詰めていなくても、耳当たりのよい政策をブチ上げれば、支持は広がると計算していたのだろうが、中身を詰めていなかったツケが回ってきた形だ。今頃「こんなはずじゃなかった」と思っているに違いない。





ザ人物伝、世阿弥、ビジネスパーソンに捧ぐ世阿弥のことば「初心忘るべからず」

2021-09-25 10:46:51 | 連絡
世阿弥が残した『風姿花伝』を始めとする多くの著作は、演劇や芸術についての考えが述べられたものですが、世阿弥のことばの深さはそれだけではありません。今でいえば、「観世座」という劇団のオーナー兼プロデューサーでもあった世阿弥は、劇団の存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。
それは役者の修行方法から始まり、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書です。いわば、芸術のための芸術論というよりは、生存競争の厳しい芸能社会を勝ち抜くための戦術書ともいえるものです。
世阿弥は、観客との関係、人気との関係、組織との関係など、すべては「関係的」であり、変化してやまないものと考え、その中でどのように己の芸を全うするか、ということを中心に説いています。
「能」を「ビジネス」、「観客」を「マーケット」、「人気」を「評価」として読めば、彼のことばは、競争社会を生きるビジネスパーソンへの提言とも読めるのです。
世阿弥の珠玉のことばの中から、代表的なものをご紹介しましょう。
〇初心忘るべからず
誰でも耳にしたことがあるこのことばは、世阿弥が編み出したものです。今では、「初めの志を忘れてはならない」と言う意味で使われていますが、世阿弥が意図とするところは、少し違いました。
世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味しています。つまり、「初心を忘れるな」とは、人生の試練の時に、どうやってその試練を乗り越えていったのか、という経験を忘れるなということなのです。
世阿弥は、風姿花伝を始めとして、度々「初心」について述べていますが、晩年60歳を過ぎた頃に書かれた『花鏡』の中で、まとまった考えを述べています。その中で、
世阿弥は「第一に『ぜひ初心忘るべからず』、
第二に『時々の初心忘るべからず』。
第三に『老後の初心忘るべからず』」の、3つの「初心」について語っています。
「ぜひ初心忘るべからず
若い時に失敗や苦労した結果身につけた芸は、常に忘れてはならない。それは、後々の成功の糧になる。若い頃の初心を忘れては、能を上達していく過程を自然に身に付けることが出来ず、先々上達することはとうてい無理というものだ。だから、生涯、初心を忘れてはならない。
「時々の初心忘るべからず」
歳とともに、その時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、その時々にあった演じ方をすることが大切だ。その時々の演技をその場限りで忘れてしまっては、次に演ずる時に、身についたものは何も残らない。過去に演じた一つひとつの風体を、全部身につけておけば、年月を経れば、全てに味がでるものだ。
「老後の初心忘るべからず」
老齢期には老齢期にあった芸風を身につけることが「老後の初心」である。老後になっても、初めて遭遇し、対応しなければならない試練がある。歳をとったからといって、「もういい」ということではなく、其の都度、初めて習うことを乗り越えなければならない。これを、「老後の初心」という。
このように、「初心忘るべからず」とは、それまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい事態に挑戦していく心構え、その姿を言っているのです。その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、新しい試練に向かっていくことができる。失敗を身につけよ、ということなのです。
今の社会でも、さまざまな人生のステージ(段階)で、未体験のことへ踏み込んでいくことが求められます。世阿弥の言によれば、「老いる」こと自体もまた、未経験なことなのです。そして、そういう時こそが「初心」に立つ時です。それは、不安と恐れではなく、人生へのチャレンジなのです。


ザ人物伝 世阿弥(ぜあみ)

2021-09-25 10:37:44 | 連絡
世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?80歳没?)は、日本の室町時代初期の大和申楽結崎座の申楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに申楽(猿楽とも。現在の能また歌舞伎の祖形ともいう)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名〈戒名〉は阿弥陀仏〈阿彌陀佛〉号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」
〇生涯
世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和申楽(猿楽)の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。
世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した[1]。
1374年または1375年、観阿弥が新熊野神社で催した申楽(猿楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。
以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。
当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。
一般に申楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。
義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに申楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は申楽よりも田楽(伝楽)好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。
義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。
1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている[2]。