麻生太郎氏らは「毅然とした対応が必要」と立ち向かったが…
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城山 英巳(しろやま・ひでみ)
北海道大学大学院 教授
1969年生まれ。
慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社に入社。
中国総局(北京)特派員として中国での現地取材は10年に及ぶ。
2020年に早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了、博士(社会科学)。
現在、北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授。
著書に『中国臓器市場』(新潮社)、『中国人一億人電脳調査』(文春新書)、『中国 消し去られた記録』(白水社)、『マオとミカド』(同)がある。
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なぜ中国共産党は一党独裁を続けられているのか。
人民解放軍が民主化運動を武力弾圧した1989年の天安門事件では、日本政府から厳しい責任追及はなかった。
その背後には、当時の宇野宗佑首相
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宇野内閣発足直後の同年6月4日、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、宇野は竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張[24][25]して他の西側諸国と距離を置き[26]、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した[27]。
総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中国の指導者江沢民からこのサミットでの対応に感謝されている[24]。
しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなった。
宇野が首相に就任した3日後、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発[注釈 1]を掲載し、宇野の女性スキャンダル[注釈 2]が表面化。
当時のサンデー毎日の編集長は鳥越俊太郎だった[28]。
初めは国内の他のマスコミは無視したが[注釈 3]が、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントン・ポスト)などと掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。
一部マスコミからは宇野ピンクザウルス総理と揶揄された。[29]。
女性問題の報道に関して妻の千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。
もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている[30]。
同年7月の第15回参議院議員通常選挙は従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームがとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなった。
投票日翌日の7月24日、宇野は敗北の責任を取り退陣を表明[31]。
会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が話題になった。
同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった海部俊樹が新総裁に選出された。
宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%AE%97%E4%BD%91
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をはじめとする親中派の国会議員の圧力があった。
北海道大学大学院の城山英巳教授の著書『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)より、一部を紹介しよう――
〇所信表明演説で天安門事件に触れなかった宇野首相
「流血」前日、首相に就任した宇野は、事件翌日の1989年6月5日に行われた所信表明演説で中国情勢に言及しなかった。
これには批判が集まったが、宇野はなぜ触れなかったのか。
6月7日、所信表明演説に対する各党代表質問があり、宇野は公明党の石田幸四郎に対して中国に邦人8000人がまだいる中で、「慎重な配慮が必要な時点でございましたので、何卒ご理解を願いたい」と述べた。
内戦の危機が伝えられた北京。日本航空と全日空は6日以降、臨時便を出す中で、宇野は社会党の土井たか子委員長の質問にこう答えた。
「やはり飛行機もどんどん出さなくちゃいけません。混乱した地に飛行機をおろすためにはやはり政府は政府としての慎重な態度が必要でございます。どなたを敵にまわしても邦人の救済ができないということになれば、たいへんなことでございます」
中国政府の機嫌を損なえば、邦人脱出の飛行機の運航にも支障が出かねないという懸念である。
「だから私はさような意味で過般の所信表明の冒頭においても、このことには敢えて触れなかったわけでございます」と認めた。
しかし中国政府を非難する国内世論が高まっていた。
これまで対中配慮を優先した宇野も土井の質問にこう言わざるを得なかった。
「銃口を国民に向けるということは由々しきことであるということを私達は申し上げなければならない。それが私の言う憂慮すべきことである」
〇宇野首相「日本は戦争で中国国民に迷惑をかけた」
しかし、対中配慮は果たして邦人保護のためだけなのだろうか。宇野は土井にこう、とうとうと述べた。
「まず中国と日本との関係、これは中国とアメリカとの関係とはまったく違う。
このことを自覚しなければいけません。
なぜならば、われわれはまず中国とはかつて戦争関係にあったという過去を持っております。
この過去には十分反省をし、戦争を通じて中国国民に迷惑をかけた」
6月12日の予算委員会では、社会党の川崎寛治衆院議員が、所信表明演説で「流血の惨事」に触れなかったことに関し「外交に人権意識は大変大事」と問いただしたところ宇野は、「やはりお隣のことはよほど慎重でなければならんし、今鳴っている音は、ラジオの音かテレビの音か、それを見分けるくらいの慎重さが必要だということが、まず私の念頭にございます」と答えた。
〇竹下登前首相「私が辞めて中国がおかしくなったと孫が言っている」
一方、天安門事件に対する大物議員の反応はどうだっただろうか。
外務省アジア局審議官の谷野作太郎は6月6日午後、数日前に首相を退任したばかりの竹下登前首相のもとへ説明に出かけた。
「事態は依然流動的であり、その帰趨きすうを慎重に見極めたい」
こう話す谷野に対し、竹下は述べた
「(中国の情勢は)よくわからんわね。当初は一時学生の運動は(愛国的なものとして)支持されており、よい方向にあると思ったのだけどね。
中国も本当に容易じゃないな」
「今日はご苦労さん。
また、いろいろ教えて下さい。
孫は、おじいちゃんが辞めて中国もおかしくなったと言っている。
今年は動乱の年だ。まあ谷野君も大変だね」(「中国情勢[竹下前総理に対する説明]」1989年6月6日)
〇日本に亡命を求めてくる中国人は「厄介」とまで発言
6月13日の自民党総務会。
橋本龍太郎幹事長は石井一全国組織委員長とともにこう意見した。
「(事態が落ち着いてくれば)日本の青年の中には訪中して中国青年を支援し、共に戦おうというおかしな者も出てこよう。
その場合の対応をどうするか考える必要もあろう」(「中国情勢[自民党総務会及び政審の反応]」1989年6月13日)。
民主化を求める中国の学生を支援すること自体を卑下するような発言であり、当時の政界の中国認識を表している。
北京の日本大使館次席公使、久保田穣が一時帰国したのは6月14日。
宇野首相や塩川正十郎官房長官らに現地の状況を報告するためである。
外相発中国大使宛公電「中国情勢[久保田公使の一時帰朝報告]」(1989年6月17日)に官邸と自民党中枢の「本音」が記載されている。
15日午前9時20分、久保田はまず官邸で塩川に会った。
北京の米大使館に民主派の天文物理学者・方励之が保護を求めて米中関係が緊張した時期である。塩川はこう話した。
「日本にも亡命を求める中国人が出てくれば厄介。
何とか工夫して(そんな事態は)避けないとな。
ちなみに、日本大使館の塀は乗り越えられるようなことはないか? 心配だな。(方励之のようなのが逃げ込んで来ないよう)中国側に警備方要請してはどうか」
塩川の発言にも、当時の日本の政治家の人権感覚が表れている。
民主派の活動家や学生らが日本に亡命を求めても、対中関係に配慮して受け入れない方針があったが、「厄介」とまで言い切っている。
〇外務省と大使館をねぎらう橋本龍太郎幹事長
久保田は続いて15日午後5時から衆院幹事長室で橋本龍太郎と面会した。
「館員は何ともなかったか。大変だったな。
特に、子供のある人は(大変だったろうな)」と声を掛けた橋本は、天安門事件による死者を「(兵士、学生・市民を含めて)300人近く」と発表した袁木国務院報道官の6日の記者会見に触れた。
「中国側スポークスマンが発表した数字はちょっと信じがたいが、一体どれくらい死んだのか。
学生も、軍も、過剰反応したが、まああれは暴徒だよな」
その上で橋本は、日本が置かれる難しい立場を述べた。
「日本政府の反応はあれしかなかったのじゃないか。
それとも、もっと厳しくすべきだったか。
(自分がインタビューを受けた)昨日のニュース・トゥデイはどうだった。『日本軍だってあれほど(残酷)なことはしなかった』という中国人の言葉は強烈だった。
日本が欧米諸国と同一歩調をとれないのは当然だ。
しかし、強硬派政権との関係にどっぷりともつかれない。米中関係が一層緊迫の度を加えれば、中ソ接近もあるのではないか。
しかし、ソ連も及び腰になるだろうね。
ゴルバチョフ(共産党書記長)が訪中した際のインタビューでゴルバチョフは学生の側についたと見てとった」
橋本は最後に外務省と大使館をねぎらった。
「まあ、いずれにせよ、今回の事態は外交官冥利みょうりに尽きるよな。
大変だけどな。
自分も気を配るし、やれることはやる。
こういう状況になってきて、大使館の存在がいよいよ重要になってきた。
予算などでできる限りのことをするので、要望があれば、どんどん持ってきてほしい。北京のみならず瀋陽しんよう等の公館についても持ってきてくれ」
〇外交文書では「対中配慮外交」を正当化
外務省として中国情勢に関心を持つ橋本龍太郎という政界の実力者を味方に付けておきたかった。
天安門事件を受けて内外から批判されかねない「対中配慮外交」を展開する外務省に対して橋本が支持していることを強調している。
久保田の一時帰朝報告の目的も、官邸と自民党に説明して理解と支持を得ておく政治的目的が主であったのだろう。
先の文書「中国情勢」にも久保田の一時帰朝報告に対する「先方の反応」としてこう書かれた。
「先方」とは官邸と自民党中枢を指す。
「在中国日本大使館の邦人保護及び情報収集等については『お叱り』など批判的言辞は一切なく、むしろ『ご苦労さん』という慰労の発言がほとんどであった」
北京や国内で批判が高まった邦人保護を含めて外務省の対中政策を正当化する文書になっている。
〇ハマコーや麻生太郎は中国共産党に毅然と立ち向かった
6月6日午後、自民党「危機管理対策議員連盟」が天安門事件を受けた中国情勢を取り上げた(「中国情勢[自民党の一部議員〔浜田幸一衆院議員他〕の反応]」1989年6月6日)。
同議員連盟会長は、「政界の暴れん坊」と呼ばれた「ハマコー」こと浜田幸一。浜田は、中川一郎、石原慎太郎、渡辺美智雄ら自民党の保守派議員らとともに1973年に「青嵐会」を結成し、田中角栄首相の日中国交正常化を受けた中華民国(台湾)との断交に反対したため、台湾派と見られていた。
会合に参加したのは、永野茂門参院議員、堀江正夫参院議員、椎名素夫衆院議員、月原茂皓衆院議員、麻生太郎衆院議員(現自民党副総裁)。保守タカ派や台湾派の議員が多く、中国共産党に厳しいのが特徴だ。
〇外務省や政府の対応を「極楽とんぼ的」と批判
永野「流血の惨事に至った現在、『人道的観点』からの対応についても慎重にしなければならない理由があるのか」
堀江、椎名「平和的民主化要求を行った学生等に無差別発砲を行い、市民をも巻き込み多くの死傷者を出したことは痛ましい限りであり、その意味で官房長官発言の『衝突の結果多くの人命が失われ』との認識はどこかおかしい。
また、昨5日の総理の所信表明演説の中では、本件に全く言及されていない。遺憾の意くらいは表明すべきではなかったか。
全く極楽とんぼ的である。
国交断絶をせよとは言わないが、政府の信頼関係が損なわれたことに対し、はっきりしたものの言い方をすべきではないか。
このままでは、日本は国としての基本理念もない『おかしな国』との国際社会での評価がますます定着することになろう。
我が国が、自由と民主主義に基本的価値を見出しているのならば、きちっと言うべきだ」
月原、麻生「こうしている間にも、中国の学生・市民が殺されており、早急に武力行使をやめるよう中国政府に申し入れるべきである。
また、中国全土から邦人を引き上げることやこのままでは経済協力の実施は困難との趣旨を伝達すること等の具体的な態度により我が国の意思を示すべきである」
さらにこう突っ込んだ。
「隣国たる中国に経済制裁を科せば、非常に大きなインパクトがあろうが、外務省として、今後内乱が起きてもいっそ自由主義的な政府ができることがいいのか、或は、体制がどうあれ中国が安定しているほうがいいのか、一体どう判断しているのか」
会合では経済制裁を科すべきだとまでは要求しなかったが、外務省に対して中国共産党にもっと強く毅然とした態度で臨むべきであるとの声が多数を占めた。
〇「日本の使命は良き隣人として中国を諫めること」
7月6日午後3時、首相官邸。
宇野は、14~16日に開催される仏アルシュサミットを前に村田良平外務事務次官からブリーフィング(説明)を受けた。
サミットで討議される政治関連の宣言のうち、流血の惨事を受けた「中国に関する宣言」の表現が焦点だった。
村田の説明を受けて宇野はこう指示した。
「中国に関する宣言の(議長国)仏側案の『野蛮な中国』という表現は、中国が嫌おう。
『価値観が異なる』『人道上許されない』との表現で足りよう」
「中国を国際的孤立に追いやるのは不適当。
日本の使命は、『良薬は口に苦し』で、良き隣人として、諫言することである。
中国を孤立しないよう引き戻すことが、他国と違う日本の役割。
私はこれを強調したいし、サミットの席でこれを話すつもり」
「中国は、開放を続けたい、処刑ももうしないと言っているし、それに応じたやりようがあろう。
また、中国は、言葉と面子をおもんじる国であるから、下手をすると逆効果である」
村田は、「これらの点を踏まえ、日本は中国の隣国でもあり、ミッテラン(仏大統領)に対し、『中国問題(の発言)は宇野総理から始めては如何』との根回しを行いたい」と述べた。
「EC(欧州共同体)・米と日本は違う、これが、文章や表現上、どこかににじみ出るようにしたい。
他方、西側の足並みが乱れないようにしなければならないし、又、(日本企業が人権よりビジネス優先のため欧米諸国に先立ち北京にUターンする)火事場泥棒もしないようにしないといけない」(外相発仏大使宛公電「部内連絡」1989年7月6日)。
〇宇野首相の思考の8割は「対中配慮」で占められていた
外務省としてはもともと「中国に関する宣言」を発出することに反対で、7月1日作成の極秘文書で、「過去にとった各国の(対中制裁)措置については、サミット参加国が共同で中国に対処しているとの印象を避けるためにも言及しない方が望ましい」と記した(情報調査局企画課「サミットにおける中国への言及振りについて[第2案]」1989年7月1日)。
宇野の指示もあり、サミット参加国が既に実施中の閣僚接触の停止など具体的な制裁措置が宣言に列挙されれば、中国政府を刺激するとして反対を強めた。そういう面で事務方の外務省と宇野の中国認識はほぼ一致しているが、
宇野は外務省以上に中国の反発に神経を尖らせており、筆者から見れば、中国にどう向き合うかに関してその思考の8割以上が「対中配慮」で占められている印象である。
(敬称略、肩書は当時)