〇要約
福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体:福󠄁澤 諭󠄀吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉 - 明治34年〈1901年〉2月3日66歳没)は、幕末から明治の日本の、武士[1]、啓蒙思想家、教育者[2]。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」[3]。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[4]。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[5]。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている[注釈 1]。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある[6]
〇概説
慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。
新聞『時事新報』の創刊者でもある。
ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。
昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている[7]。
〇経歴
〇出生から中津帰藩、長崎遊学
天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島新地五丁目(現・大阪府大阪市福島区福島一丁目)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福沢百助と妻・於順の間に次男(末子)として生まれる。
諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。
福沢氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福沢あるいは同国諏訪郡福沢村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した[8][注釈
ー略ー
〇晩年
諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという[45]。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた[45]。
晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、
北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる[46]。
また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している[47]。
諭吉は
明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。
その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂した[48]。
しかし明治34年(1901年)1月25日、脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享年68(満66歳没)。
7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している[49]。
8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった[48]。
〇人物・思想
◇居合の達人
諭吉は、若年のころより立身新流居合の稽古を積み、成人のころに免許皆伝を得た達人であった。
ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。
無論、逃げることは最も安全な護身術であるが、諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことがなかった勝海舟や山岡鉄舟の思想との共通性が窺える。
晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。
医学者の土屋雅春は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている[78]。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけており、これでは逆に健康を害すると分析されている。
明治中期に武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、一時期「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた[79]。流行り物に対してシニカルな一面も窺える
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