A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

流離譚15

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
文助墓

 道太郎の墓の近くを探すが、文助の墓が見つからない。雨はさらに強くなったが、諦めて帰る気にはなれなかった。右下斜面へ下る道筋を探しあぐねているうちに、濡れた草に足元を滑べらせ、意に反し転び落ちるようにして、その薄暗い区画に下り立った。
 横並びに数基、小さな墓があり、左端の墓に安岡文助の名が読み取れた。胸の高鳴るのを感じた。ついに見つけたのである。
と同時に胸を突かれた。維新後の窮乏ぶりを示すがごとく、その墓はとりわけ小さく簡素なものであったからだ。

 地主郷士として、文助は几帳面な日記を残した。息子たちの活躍の時期は、むしろ憚られることが多く、記載が欠となる。
 文助は、二人の息子を横死させ、維新後間もなく妻にも先立たれている。その後は、山北のお西家を処分し、高知で活動する道太郎を頼って、自分もこの小高坂へ移り住んだものであろう。
墓の前に蹲踞し、しばし合掌。

LUMIX FX8
 木立に囲まれた墓所はかなり薄暗く、ライカの方は、F2、I/15秒でも露出アンダーであった。雨が降る中、片手に傘、片手にデジカメで撮影した。こういう時は、手ぶれ補正の利くコンパクト・デジカメがホントにありがたい。

流離譚14

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 道太郎は自由民権運動の立志社の新聞社創立に参加し、ジャーナリストとして活躍したのであるが、その才能は時事的な分析や、政治思想的な論述ではなく、「民権かぞえ歌」のような文学的な方向で開花したようである。ちなみに植木枝盛の給料は破格の50円で、道太郎のそれは15円であった。

流離譚13

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
道太郎墓

 道太郎の墓を見つけるのに、雨の中を1時間以上探し回った。結局、植木枝盛の墓を左下に見下ろすような角度になる崖上の崖っぷちに6基の墓があった。足場が悪く、墓はそれぞれ思う方向に傾いている。墓所としては最も適さない場所に建っているといってよいだろう。右端奥が道太郎の墓である。


流離譚12

2005年08月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
植木枝盛墓

 小高坂山を頂上から、南斜面の側に草を分け僅かな道を探しながら進むと、崖の上に出た。その下に、孟宗竹の林に囲まれて、ぽっかり窪地が広がっていおり、植木枝盛の墓はその中央にあった。最初の目印は見つかったわけである。



LUMIX FX8