A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

ハードボイルドな呉

2005年08月27日 | 旅の破片
 23日17時の土讃線特急南風に乗り、高知より岡山経由で呉とへ向かう。
子供の頃、地理の時間に教わった、あの大歩危(おおぼけ)辺りにて、日が暮れる。なるほど険阻な地形で、箱根などは及びも付かない。幕末土佐からの脱藩者は大変な思いをしたことであろう。

 夜遅く呉駅に着き、ホテルに一泊。早朝、西岸地区にあたる海岸1~3丁目、東塩町あたりを撮り歩く。中央卸売市場や正岡子規が日清戦争時に立ち寄って残した句碑などあり。山陽本線が山沿いに走っていて、思わぬ場所から列車が現れる。造り酒屋、醤油屋、畳屋、タバコ屋、銭湯、瀬戸物屋、旅館、国道沿いの整形外科医院など、昭和30年代までに建てられたと思しき建物が多く見られる。建物がその家の家業を指し示す顔つきを保っていると、それは市民の生活感を醸し出すし、町の風景に安定感をもたらす。

 高台の神社に上がると眼下に視界が開け、山の斜面にまで人家が密集する、摺り鉢状の呉の街の全貌が把握できる。

 呉は戦前国内最大の軍港都市であったので、米軍の空爆の標的たるを回避できなかった。昭和20年3月19日の軍港の空襲から始まって、後には市街地の無差別な空襲となった。7月2日までの間に空襲は十数度に及び、市の中心部はほぼ焼け野原と化した。その結果が、碁盤の目のように整備された現在の市街地であり、戦前の建物は何も残っていないと云ってよい。

 だから市の中心部を散歩しても、写真に撮りたいような情景には出会わなかったであろう。魅力ある海岸1~3丁目あたりにめぐり当たったのは偶然であって、初めての土地はこの辺が難しい。嗅覚を研ぎ澄まして、それが指し示す方角へ進むしかない。

 高知の町が概して元気がなかったのに比べ、呉の町は駅周辺から海岸にかけて再開発が進んでおり、活気が感じられた。東岸地区には、船舶・製鉄関係の工場、自衛隊関連施設、潜水艦の停泊施設、米軍関連施設などがあり、これらがこの町の経済的活力の元となっている。戦前の鎮守府跡、呉工廠正門跡などもこの方面である。

 例の戦艦大和ミュージアムも見物した。十分の一模型は確かに迫力あるが、模型は模型であって、2度3度と見に来る観光客が、果たしてどれくらいあるだろうか。