A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

F. ベアト覚え書き(続き)

2006年06月03日 | 江戸から東京へ
2. 横浜時代

 ベアトは中国から、一時イギリスへ帰国した後、文久3年(1863)の春に来日している。その来日直後から明治3年(71年)の米軍朝鮮遠征の同行までが、写真家としてのベアトがもっとも充実した期間であった。

 当初は事件の現場や報道的な題材の写真が多く見られる。攘夷志士による東漸寺の英国領事館襲撃事件、生麦事件やヒュースケン殺害事件などは、ベアトの来日前におこったものだが、彼が撮影したそれら現場写真にはまだ生々しい臨場感が残っている。おそらくコンビを組んでいたワーグマンから、事件の詳細を聞かされていたのであろうと思われる。というのもワーグマンは東漸寺の事件の際には、現場に居合わせおり、事件直後に夜の襲撃の様子をイラストに描いて「絵入りロンドンニュース」に載せているからだ。また生麦事件の方も、やはり彼のイラストが同紙に載っていて、こっちはベアトの写真による複写も残っている。当時は、「明日は我が身」という情勢であったから、この二つの同胞殺害事件に対し、居留地イギリス人社会の関心が高かったのも当然であろう。

 現に、その後、ベアト自身も鎌倉へ撮影旅行に出かけた際に、「鎌倉事件」に遭遇している。鎌倉見物した後、別れたばかりの2人の英将兵が浪人に襲撃され、殺害されたのである。藤沢の宿まで戻ったところで、その報を受けたベアトは、難を避けるため、すぐさま馬で横浜へ逃げ帰っている。

 幕末にはまだ外国人が国内各地を撮影して回れるような自由も安全も確保されておらず、一般外国人には、横浜から半径10里以内の遊歩区域制限が設けられていた。そのため幕末のベアトの活動範囲は、近隣では関内および遊歩区域内であり、遠方では、日本各地の開港場や各国軍に同行した遠征先、外交官に随行した旅行先ということになる。 

 長崎のパノラマ写真、台風の被害にあった神戸、戊辰戦争後の荒廃した大阪城、箱根、厚木、八王子、王子、滝の川などの写真は、こういう条件下で精力的に撮影されたものであった。下関戦争の際にも連合軍の遠征に同行し、「前田砲台の占領」の写真を撮影している。

 パノラマ写真は、長崎、横浜居留地、愛宕山からの江戸パノラマが数セットづつある。どれも力のこもった写真で、歴史的にも興味を引かれる。愛宕山と横浜のパノラマがとりわけすばらしい。

 当時は、写真製版技術が未発達であったので、まだ大量印刷物に写真を掲載することはできなかった。このためベアトが撮影し、ワーグマンなどの画家がそれをもとにデッサンを起こし、版画から印刷したものが多く見られ、オリジナルプリント自体は無理でも、こっちの方は今でも手に入りやすい。ワーグマンは幕末発刊の風刺漫画雑誌「ジャパン・パンチ」の発行者であるが、彼はこれに、ベアトをたびたび登場させてからかっている。ひげ面で、モミアゲの長い、太っちょの写真師で、コロジオン侯爵があだ名である。(当時はコロジオン湿板写真であった。)どうも彼は、最近の堀江某氏のような、「いじられキャラ」であったようだ。

 明治維新を迎え、1971年英国の朝鮮出兵への従軍の頃までは精力的な写真家としての活動がピークを迎えた時期である。しかしその後は、不動産売買や、貿易、洋銀相場の取引などの事業に積極的に乗り出すようになり、はっきり言って写真の方は生彩を欠いている。明治維新により、古い日本が瓦解した後の、新しい日本には興味が持てなかったのかも知れない。また次第に、日本人写真家も育ち始め、幸福なパイオニアの時期は終わろうとしていた。明治10年には、17番のスタジオを、機材とネガ一切を含めて、スティルフリート&アンデルセンに譲渡し、写真家を廃業している。

 洋銀相場は、メキシコ銀との換金比率の差が莫大な利益を生み出す相場で、一時期は、ベアトが一人で左右するほどの力を持っていたという。しかしその後、明治政府がデフレ政策を取ることにより、洋銀相場は暴落、ベアトは大きな損害を被る。次に手を出した米相場でも失敗し、結局、財産の大半を失ってしまうことになる。振り出しに戻ったのである。 

 1887年、ジェイムス・ロバートソンと妹のマリアが来日する。彼は写真家ベアト兄弟の生みの親であった。この時期何故、彼らが来日したのかという事情は分っていないが、ロバートソン夫妻はそのまま日本に住み着き、夫の方は93年に日本で死去している。

 1894年、ベアトは20年来住み慣れた日本を後にし、英軍の遠征先のスーダンへ行く。50歳になっていた。またしても報道写真家に戻ったのである。最後はビルマに住み着き、家具や骨董の店を経営する。ビルマの市街の写真が残っている他に、家具の見本写真が残っており、それには「昔取った杵柄でベアト氏が撮影」とあるという。

 1908年頃亡くなったのではないかと言われているが、没年ははっきりしない。墓所も死亡紹介記事も見つかっていない。


「F. ベアト幕末日本写真集」横浜開港資料館編  
「F. ベアト写真集2」横浜開港資料館編 明石出版
「幕末明治 横浜写真物語」斉藤多喜夫著 吉川弘文館