8月30日 (月)
平成17年1月1日より 2,100日目
歩いた歩数 その距離
本日 16,234歩 11, 364m
総計 29,059,677歩 20,341,774m
パキスタン・アフガニスタン・イランを経てトルコのイスタンプールに向かう。後966,785m
ここのところ、司法大臣が死刑場を国民に公開して、死刑は必要なものか?残虐なものか?誰もが納得できる方法で実施させているのか?死刑を執行する人はどうか?死刑を執行される死刑囚はどうか?などを考えさせる場を国民に示して、死刑に対する国民の意思を問う姿勢を示した。選挙に落選した司法大臣はいずれ近く辞任か更迭される立場だが、これは最後の英断と思う。
さて私の考えだが、公開された死刑執行の仕組みは、悔悟した死刑囚の刑を執行するにはやむを得ない状況を作っていると評価せざるを得ないと思うが、さてその死刑執行を命じられた人間にとってどうだろうかと考えるとき、罪悪感が皆無とはどうしても思えない。国家の秩序を守る公務員の一人であり、組織の歯車に組み込まれた一員であり、家族を養うために俸給を食む者として任務を忠実の実行しなければならない者として、その役割を実行したに過ぎないと考えられるだろうか?
ある死刑執行者は述懐した。「人に死を与えることは忍びないが、彼が犯した重大犯罪を思い、その罪を憎んみ、被害者の恨みを報いるためと思いボタンを押した…という。
私は「死」こそ憂世から逃れる最善の手段だと思っている。そのために最善ではないかも知れないが最後の手段として自殺を考える人はいくらでもいる。借金が払えないために、恋人に振られたために、受験に失敗したために等々犯罪を犯した訳でなくとも、他人に迷惑をかけた、目的を達せられないことに絶望しただけで死を選ぶ人は後を絶たない。苦しみから逃れるために「死」を選ぶ。その先には天国があるかもしれない。地獄の責め苦があるかも知れない。そんなものがある筈はない。その先には【永眠】だけが存在する。
極悪の犯罪・残酷な非人間的な行為をした者に【死】を与える。それは【安らかに眠りたまえ」と手助けをしているようなものだ。被害者の家族は嘗ては仇討ちを許された。仇に会えたものは、こっそり隠れて鉄砲で撃ち殺すのではなく、「我こそは誰それの嫡男、誰それなるぞ!親の仇覚悟せい!」と公衆の面前で名乗りを挙げて意趣を晴らしたものだ。相手にその非を悟らせて仇を討つ。それでこその本懐なのだ。
私は無期懲役、人生命のある限り、罪の償いをし、心に重し背負って苦しみ、悔悟させる、そのことこそ地獄の人生と思う。被害者の家族には加害者と面会することで納得のゆく心を求めさせるべきだと思う。
解放なき無期懲役こそ死刑に勝る重い刑罰と思う。死刑など気安めな刑は国家は為すべきではない。