
1.ウルヴァリンX-MEN ZERO
ウルヴァリンと言えば怒った際両手のナックルから飛び出す超金属の刃(爪?)が特徴で売り物のミュータントであるが、この映画では彼が如何にしてこの天下無双無比の武器を獲得するに至ったかを解き明かす言わば「X-MENシリーズ」の前史という筋立てになっている。
超人(ミュータント)らの持つ機能を更に増幅させて軍事への利用を企む政府機関と、片や「人権(生きる権利)」を主張するミュータントたちとの間のこの前史に於ける確執は、やがて全人類対ミュータント一族(及び彼らとの共存を望む一部一般人)の間の全面戦争という本編へと引き継がれて行くわけである。
まあ荒唐無稽で面白かったけど、本編の興行が受けた後から作られるこの手の「前史」というものはなんか辻褄が合い過ぎていて、 却って一種白々しさを引き摺ってしまうのを拭い切れないものである。これとは違うが、目覚める間際のある種の「夢」も、応急の肉付け=正当化(?)が行われて「如何にも言い訳じみた、常識的で尤もらしいストーリー展開へと補修されて行く」と、そういういう傾向があることを、何かで読んだことがある。夢から覚醒しつつある過程で現実との整合性を半ば無意識のうちに求めてしまうというのも、考えてみれば当然至極と言える。「夢」は時空の接続が自由自在であったりするが、その夢の中にあってさえも、我々はどうやら言い訳ばかりしている情けない存在のようである。w
・・であるならば別に鳩ちゃんを擁護するわけではないが、「自分は過去も正しかったし今も正しい。明日も明後日も正しいだろう。無論夢の中でも自分は無謬だ!」などと理路整然と言ってのける輩を、あなた信じられますか?ということなのである。
ウルヴァリン:X-MEN ZERO - goo 映画
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2.007 慰めの報酬
「007」を昔我々は本場風の「ダブローセヴン」ではなく「ゼロゼロセブン」と読んでいたのであるが、これは正しい読み方ではないとされ修正された。
しかしウィキペディアによればこの「007」の読み方は各国まちまちで、みんな当然自国語に合わせて自国語流に読んでいるのであって、どういう「欧化主義」か米英の「英語圏」崇拝か知らないが、わざわざ下手な発音で「ダブローセブン」などと読んで一人悦に入っているのは我々ニッポンジンだけのようである。w
goo映画によれば: ↓ ↓
初めて愛した女・ヴェスパーを失ったジェームズ・ボンドは、ヴェスパーを操っていたミスター・ホワイトを尋問し、背後にいる組織の存在を知る。早速捜査のためにハイチへと跳び、知り合った美女カミーユを通じて、組織の幹部であるグリーンに接近。環境関連会社のCEOを務める男だが、裏ではボリビアの政府転覆と天然資源の支配を目論んでいるのだった。ボンドは復讐心を胸に秘めながら、グリーンの計画阻止に動くが……。
『007/カジノ・ロワイヤル』に続くダニエル・クレイグ版007の第2弾。前作で初めて愛した女性・ヴェスパーを喪ってしまったジェームズ・ボンドが、復讐心に駆られながらも任務に臨み、巨大な犯罪組織と対決する姿を描いていく。ダニエル・クレイグは前作同様、ジェームズ・ボンドを人間味たっぷりに表現。またアクションでも身体を張ったファイトシーンなどを披露している。本作のボンドガールを務めたオルガ・キュリレンコは、タフでどこか謎めいた魅力を持つカミーユを鋭く演じた。監督は『チョコレート』のマーク・フォースター。人間ドラマを描くことに定評のある彼が、クレイグ版ボンドの魅力をより一層引き立てている。
・・ということである。元々私はこのシリーズには興味がなかったし、トビタでもかからなかったので(!)ボンドが代替わりしてからは初めて見た。なので、従来の作品とは趣きが随分違うことにまず驚いた。笑。
ここに出て来るボンドは上司の再三に亘る制御・制止は一切無視して、重要容疑者・重要参考人を矢鱈スピーディに殺しまくる「はねっ返り」そのものである。こういう致命的な人間を内に抱えた「組織」は大抵うまく行かない。笑。
いわゆる「殺しのライセンス(特別殺人許可証)」はショーン・コネリーの代からあったわけだろうが、彼の演じたボンドはプレイボーイでユーモア溢れる男であって間違っても「殺人鬼」などではなかった。w
007/慰めの報酬 - goo 映画
cf.ジェームス・ボンド
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3.ICHIGEKI 一撃
「一撃」とは最後の「フェンシングvs日本刀(?)」の決闘シーンのこと。
私はこの映画も以前同じトビタシネマで見ている。
政府の秘密工作員であった過去と決別し、人里離れた森の奥で「野生生物保護官」として隠遁生活を送る主人公(セガール)が、海外文通相手の少女の危機を知って巨悪との対決に立ち上がるというストーリーである。
この、「切った張ったの血腥い争闘からはいい加減足を洗いたい」と考えている主人公が「悪」の跳梁を知って「已むに已まれず」再び戦いの日々に身を窶すという設定はS・セガールの映画によくあるパターンであるが、これは高倉健さんらの東映ヤクザ映画とある意味よく似た構造であると言えないだろうか。
セガールは我慢も穏忍自重もしないが健さんは我慢に我慢を重ねて「善人(イイモン)」がみんな殺されてしまってから最後に「殴り込み」をする。どこが似ているかと言うと「暴力など振るいたくないんだけど(已む無く)」というヒューマニックな(?)エクスキューズをつけた、しかしれっきとしたバイオレンス映画であるという点である。これを付加しておかないと「暴力礼賛」「殺人賛美」のレッテルを貼られかねないと用心しているわけで、ついでに言えば菅原文太の「仁義なき」のシリーズは健さん映画へのアンチだったのである。
ICHIGEKI/一撃 - goo 映画
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ウルヴァリンと言えば怒った際両手のナックルから飛び出す超金属の刃(爪?)が特徴で売り物のミュータントであるが、この映画では彼が如何にしてこの天下無双無比の武器を獲得するに至ったかを解き明かす言わば「X-MENシリーズ」の前史という筋立てになっている。
超人(ミュータント)らの持つ機能を更に増幅させて軍事への利用を企む政府機関と、片や「人権(生きる権利)」を主張するミュータントたちとの間のこの前史に於ける確執は、やがて全人類対ミュータント一族(及び彼らとの共存を望む一部一般人)の間の全面戦争という本編へと引き継がれて行くわけである。
まあ荒唐無稽で面白かったけど、本編の興行が受けた後から作られるこの手の「前史」というものはなんか辻褄が合い過ぎていて、 却って一種白々しさを引き摺ってしまうのを拭い切れないものである。これとは違うが、目覚める間際のある種の「夢」も、応急の肉付け=正当化(?)が行われて「如何にも言い訳じみた、常識的で尤もらしいストーリー展開へと補修されて行く」と、そういういう傾向があることを、何かで読んだことがある。夢から覚醒しつつある過程で現実との整合性を半ば無意識のうちに求めてしまうというのも、考えてみれば当然至極と言える。「夢」は時空の接続が自由自在であったりするが、その夢の中にあってさえも、我々はどうやら言い訳ばかりしている情けない存在のようである。w
・・であるならば別に鳩ちゃんを擁護するわけではないが、「自分は過去も正しかったし今も正しい。明日も明後日も正しいだろう。無論夢の中でも自分は無謬だ!」などと理路整然と言ってのける輩を、あなた信じられますか?ということなのである。

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2.007 慰めの報酬
「007」を昔我々は本場風の「ダブローセヴン」ではなく「ゼロゼロセブン」と読んでいたのであるが、これは正しい読み方ではないとされ修正された。
しかしウィキペディアによればこの「007」の読み方は各国まちまちで、みんな当然自国語に合わせて自国語流に読んでいるのであって、どういう「欧化主義」か米英の「英語圏」崇拝か知らないが、わざわざ下手な発音で「ダブローセブン」などと読んで一人悦に入っているのは我々ニッポンジンだけのようである。w
goo映画によれば: ↓ ↓
初めて愛した女・ヴェスパーを失ったジェームズ・ボンドは、ヴェスパーを操っていたミスター・ホワイトを尋問し、背後にいる組織の存在を知る。早速捜査のためにハイチへと跳び、知り合った美女カミーユを通じて、組織の幹部であるグリーンに接近。環境関連会社のCEOを務める男だが、裏ではボリビアの政府転覆と天然資源の支配を目論んでいるのだった。ボンドは復讐心を胸に秘めながら、グリーンの計画阻止に動くが……。
『007/カジノ・ロワイヤル』に続くダニエル・クレイグ版007の第2弾。前作で初めて愛した女性・ヴェスパーを喪ってしまったジェームズ・ボンドが、復讐心に駆られながらも任務に臨み、巨大な犯罪組織と対決する姿を描いていく。ダニエル・クレイグは前作同様、ジェームズ・ボンドを人間味たっぷりに表現。またアクションでも身体を張ったファイトシーンなどを披露している。本作のボンドガールを務めたオルガ・キュリレンコは、タフでどこか謎めいた魅力を持つカミーユを鋭く演じた。監督は『チョコレート』のマーク・フォースター。人間ドラマを描くことに定評のある彼が、クレイグ版ボンドの魅力をより一層引き立てている。
・・ということである。元々私はこのシリーズには興味がなかったし、トビタでもかからなかったので(!)ボンドが代替わりしてからは初めて見た。なので、従来の作品とは趣きが随分違うことにまず驚いた。笑。
ここに出て来るボンドは上司の再三に亘る制御・制止は一切無視して、重要容疑者・重要参考人を矢鱈スピーディに殺しまくる「はねっ返り」そのものである。こういう致命的な人間を内に抱えた「組織」は大抵うまく行かない。笑。
いわゆる「殺しのライセンス(特別殺人許可証)」はショーン・コネリーの代からあったわけだろうが、彼の演じたボンドはプレイボーイでユーモア溢れる男であって間違っても「殺人鬼」などではなかった。w

cf.ジェームス・ボンド
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3.ICHIGEKI 一撃
「一撃」とは最後の「フェンシングvs日本刀(?)」の決闘シーンのこと。
私はこの映画も以前同じトビタシネマで見ている。
政府の秘密工作員であった過去と決別し、人里離れた森の奥で「野生生物保護官」として隠遁生活を送る主人公(セガール)が、海外文通相手の少女の危機を知って巨悪との対決に立ち上がるというストーリーである。
この、「切った張ったの血腥い争闘からはいい加減足を洗いたい」と考えている主人公が「悪」の跳梁を知って「已むに已まれず」再び戦いの日々に身を窶すという設定はS・セガールの映画によくあるパターンであるが、これは高倉健さんらの東映ヤクザ映画とある意味よく似た構造であると言えないだろうか。
セガールは我慢も穏忍自重もしないが健さんは我慢に我慢を重ねて「善人(イイモン)」がみんな殺されてしまってから最後に「殴り込み」をする。どこが似ているかと言うと「暴力など振るいたくないんだけど(已む無く)」というヒューマニックな(?)エクスキューズをつけた、しかしれっきとしたバイオレンス映画であるという点である。これを付加しておかないと「暴力礼賛」「殺人賛美」のレッテルを貼られかねないと用心しているわけで、ついでに言えば菅原文太の「仁義なき」のシリーズは健さん映画へのアンチだったのである。

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