*『ギリシャ文明』でも『地中海文明』でもいいんだけど、そんなものはあくまで全『世界史』の中では極く狭い部分のお話であって、じゃあその同時代にこの地球の他の場所ーー中国でもインドでも他の区域でもいいんだけどねーーはどうだったのかという問題も等価同等に研究~言及して行かないとこれは一挙に『西欧中心史観』そのものに転落してしまうのである。『大航海時代』にヨーロッパから船で世界各地に出掛けて行った連中にとって、ヨーロッパ人以外の『蛮族』たちは総じて人間ではなかったのだから『中華思想』だけを攻撃していればいいというものではない。地球は彼らを中心に回って来たわけではないのだ。
これは紀元前の話で、鉄器を持って南下して来たドーリア人の一派がギリシャ・ペロポンネソス半島の先住民を征服して作った国の一つに『スパルタ教育』で有名なスパルタという都市国家があって、この『300』というのは何たら言う王の精鋭部隊・近衛兵の数を示している。それでこの映画は、彼らたった三百の精鋭たちがペルシャからの百万の征服軍・侵略軍と闘い見事華と散るという一大スペクタル巨編である。
ま、特撮だからね、凄いよね。笑。
旅研には↓ 以下の記述がある。
●ドーリア人
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD
古代ギリシア民族のうち,前13~前12世紀のエーゲ海における民族移動,あるいは“海の民”の襲来につづいて多分前11世紀ごろヘラスに移動してきた分派で,3部族制と独得の方言に特色がある。ドーリス人ともいう。青銅器時代の初期(前2500~前2000年ごろ)に移動してきたギリシア人のうち,一部は前1950年ごろギリシア本土に侵入して農耕を始め,ミケーネ文明圏を形成したが,一部は北ギリシアの山岳地帯にとどまって移牧を行った。これがのちのドーリア人である。彼らは鉄器によって先住民を征服しながら南下してきたが,その時期と経路は学界の重大な論争点である。ドーリア人がミケーネ文明を破壊したとする古典学説に対して,最近では“海の民”を破壊者とみる学説が優勢である。ともあれ,ピュロスやミケーネ出土のリニアB文書にドリス方言が使われていないこと,ホメロスの叙事詩がドーリア人に言及していないことは事実である。ドーリア人の移動をヘラクレス一族の帰還と結びつける古代ギリシアの伝承によると,ヘラクレスの息子ヒュロスが,ドーリア王アイギミオスのもとに赴き,その養子となった。彼の子孫はドーリア人の先頭に立って奮闘し,失敗を重ねながらペロポンネソスに侵入し,ラコニア・アルゴス・メッセニアと分散していった。ヘラクレスとの結びつきはドーリア人の侵略と支配の正当化のために考案されたのであろうが,オリンピア→デルフォイ→ナウパクトス→コリント湾の渡海→ペロポンネソス半島という“帰還”の経路は容認できるように思われる。スパルタの詩人テュルタイオスもヘロドトスもそう主張している。とすれば,コリント地峡通過はこの時期ではなく,のちのメガラ地方のドーリア化に帰せられるべきかもしれない。伝承はまた有名な3部族制の起源をも説明しているが,ヒュレイスはイリュリア系,デュマネスはギリシア系,パンフュロイは文字通り“全部族”の混合体と解釈することができ,移動に先立って行われた部族編成の様子を暗示しているのである。ドーリア人はスパルタ・アルゴス・シキュオン・コリントス・メガラの諸ポリスをつくり,エーゲ海のクレタ・メロス・テラの島々,小アジア西岸のロドス・コス・クニドス・ハリカルナソスに定住した。ドリス系ポリスがその後の政治的・経済的発達の過程で二つの方向をとったことは注目すべきである。スパルタやクレタの諸ポリスでは3部族制が固持されて,支配階級を形成し,被征服民を農奴とした。このため軍事国家の道を歩むことになる。他方,シキュオンやコリントスなどのポリスは,商業を発達させ,早くから3部族制が崩れ,征服者と原住民の同化がすすんだ。その過程で僣主の登場がみられたことも特色の一つである。ドーリア人は文化面でギリシア史に大きく貢献した。製陶(コリントスやスパルタ)・建築・叙事詩・彫刻の各分野での活躍はイオニア文化(前6世紀)にはるかに先駆けている。ドーリア人は数多くの植民市を建設したが,そのなかにはシラクサとケルキュラ(母市はコリントス),タラス(タレントゥム,母市はスパルタ)・ビザンティオン(母市はメガラ)が含まれている。
cf.300公式HP.←ここから私はポスターを6枚全部ダウンロードしましたっ。やっほいほい!
yahoo300には ↓次のような解説とあらすじがあった。
解説: 『シン・シティ』でも知られるフランク・ミラーのグラフィック・ノベルを基に、スパルタの兵士300人がペルシアの巨大軍と戦う姿を描いたアクション超大作。監督は『ドーン・オブ・ザ・デッド』のザック・スナイダー。屈強なスパルタの王レオニダスを『オペラ座の怪人』のジェラルド・バトラーが演じる。色彩のバランスを操作し、独特の質感になるよう画像処理を施した斬新な映像美とともに、屈強な男たちの肉体美も見どころとなっている。(シネマトゥデイ)
あらすじ: 紀元前480年、スパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、ペルシアの大王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)から服従の証を立てるよう迫られる。そこで、レオニダス王が取った選択肢は一つ。ペルシアからの使者を葬り去り、わずか300人の精鋭たちとともにパルシアの大群に立ち向かうことだった。(シネマトゥデイ)
cf.スパルタ
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*無法松の一生は三船敏郎主演のを見たわけだが、これも往年の名画の一つである。脇役陣もしっかりしていて、とりわけ相手役の高峰秀子が私には良かった。ぽわぁ~ん。昔見たような気もするけど、私が思っていたよりも遥かにほのぼの系の大作である。
無法松の一生(1958)(1958) - goo 映画
解説
岩下俊作の原作から故伊丹万作と稲垣浩が脚色、「柳生武芸帳双龍秘劔」の稲垣浩が再び監督する往年の名作の再映画化。撮影は「遥かなる男」の山田一夫が担当した。「柳生武芸帳双龍秘劔」の三船敏郎、「張込み」の高峰秀子という顔合せに、芥川比呂志、笠智衆、宮口精二、多々良純、有島一郎などが出演。色彩はアグファカラー。
ネタばれあらすじ
明治三十年の初秋--九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきた。芝居小屋の木戸を突かれた腹いせに、同僚の熊吉とマス席でニンニクを炊いたりする暴れん坊も、仲裁の結城親分にはさっぱりわびるという、竹を割ったような意気と侠気をもっていた。日露戦争の勝利に沸きかえっている頃、松五郎は木から落ちて足を痛めた少年を救った。それが縁で、少年の父吉岡大尉の家に出入りするようになった。大尉は松五郎の、豪傑ぶりを知って、彼を可愛がった。酔えば美声で追分を唄う松五郎も、良子夫人の前では赤くなって声も出なかった。大尉は雨天の演習で風邪をひき、それが原因で急死した。残る母子は何かと松五郎を頼りにしていた。松五郎は引込み勝ちな敏雄と一緒に運動会に出たり、鯉のぼりをあげたりして、なにかと彼を励げました。そんなことが天涯孤独な松五郎に、生甲斐を感じさせた。世の中が明治から大正に変って、敏雄は小倉中学の四年になった。すっかり成長した敏雄は、他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせ、松五郎を喜ばせた。高校に入るため敏雄は小倉を去った。松五郎は愛するものを奪われて、めっきり年をとり酒に親しむようになった。酔眼にうつる影は良子夫人の面影であった。大正六年の祇園祭の日、敏雄は夏休みを利用して、本場の祇園太鼓をききたいという先生を連れて小倉に帰って来た。松五郎は自からバチを取った。彼の老いたる血は撥と共に躍った。離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめて打つ太鼓の音は、聞く人々の心をうった。数日後、松五郎は飄然と吉岡家を訪れた。物言わぬ松五郎のまなこには、涙があふれていた。それ以来、松五郎は夫人の前から姿を消してしまった。雪の降る日、かつて敏雄を連れて通った小学校の校庭に、かすかな笑みをうかべた松五郎が倒れていた。残された柳行李の中には、吉岡家からもらった数々のご祝儀の品々が手をつけられずにあった。その奥底には敏雄と夫人宛の貯金通帳もしまわれていた。良子夫人は冷い亡きがらに取りすがって泣きくずれるのだった。
↑ 以上引用はgoo映画より。
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cf.地下鉄に乗って公式HP.
絶縁状態の父親が倒れたという知らせを受けた日、小さな衣料品会社の営業マン・長谷部真次は、いつものようにスーツケースを転がしながら地下鉄で移動していた。そこに突然、亡き兄が姿を現す。兄の背中を追って地下通路を抜けると、そこは昭和39年の東京だった。ほどなくして真次は無事現在に戻ってくるが、後日、今度は恋人の軽部みち子も一緒に昭和21年に遡り、闇市でしたたかに生きる若き日の父・小沼佐吉に出会う。
大都会・東京の地中深く縦横無尽に張り巡らされた地下鉄路線。多くの人々にとっては何の変哲もない日常の移動手段に過ぎない。そこから逸脱し、過去に旅する主人公の真次とみち子は、図らずもお互いの絆を深めることになるのだが。演じる堤真一、岡本綾と一緒に見る者も、地下鉄の轟音と共に過去へ連れ去られる。直木賞作家・浅田次郎の自伝的要素の強い同名小説を原作に、一筋縄ではいかない父と子の愛憎や、愛する男を幸せにするために非常な決断を下す女心がエモーショナルに描かれる。大沢たかおが出征直前の若者から、威圧的な父親までを一気に演じれば、真次を過去に誘う恩師役の田中泯が圧倒的な存在感で異彩を放つ。
↑ 以上引用はgoo映画より。
地下鉄(メトロ)に乗って - goo 映画
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*東京の地下鉄は複雑だね。大阪のは中心部ではほぼ格子上に交わっているから大抵はどれに乗っても乗り換え出来るようになっている。名古屋、京都はもっと単純だ。
東京は都区内フリー切符(一日乗車券の一種)はまだあるのだろうか。あれは確かJRも地下鉄も都バスもOKだったからとても便利だった。大阪は『一日乗車券』というのはあるけど、使えるのは地下鉄と市バスだけだから自由度は小さい。でも毎週金曜日と毎月20日はノーカーディと言って通常800円のところ600円になるからこれは『お値打ち』である。(←名古屋の人は『お買い得品』『特売品』のことを『お値打ち』と呼ぶのである。w)
*それでこの『メトロに乗って』(06年公開)だが、なんというか、全般に作り方が若過ぎるのだな。つまり幼稚だ。笑。
大沢たかおの老け役には無理があったし、何回もタイムスリップしてその度過去の父親とぴったりご対面するという、身も蓋も無い『超ご都合主義的ストーリー展開』も気に食わなかったが、まあそれなりに楽しんで見たから良しとするか。w
ただ元々の本が悪いのか、『愛人』の身分の若い女性(岡本 綾)が相手の男性とその家族の立場を思って身を引くという結末は如何にも古めかしく、倫理臭が芬々としていて不愉快だった。不倫が罪というならその報いは男女公平に受けて然るべきである。
これは紀元前の話で、鉄器を持って南下して来たドーリア人の一派がギリシャ・ペロポンネソス半島の先住民を征服して作った国の一つに『スパルタ教育』で有名なスパルタという都市国家があって、この『300』というのは何たら言う王の精鋭部隊・近衛兵の数を示している。それでこの映画は、彼らたった三百の精鋭たちがペルシャからの百万の征服軍・侵略軍と闘い見事華と散るという一大スペクタル巨編である。
ま、特撮だからね、凄いよね。笑。
旅研には↓ 以下の記述がある。
●ドーリア人
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD
古代ギリシア民族のうち,前13~前12世紀のエーゲ海における民族移動,あるいは“海の民”の襲来につづいて多分前11世紀ごろヘラスに移動してきた分派で,3部族制と独得の方言に特色がある。ドーリス人ともいう。青銅器時代の初期(前2500~前2000年ごろ)に移動してきたギリシア人のうち,一部は前1950年ごろギリシア本土に侵入して農耕を始め,ミケーネ文明圏を形成したが,一部は北ギリシアの山岳地帯にとどまって移牧を行った。これがのちのドーリア人である。彼らは鉄器によって先住民を征服しながら南下してきたが,その時期と経路は学界の重大な論争点である。ドーリア人がミケーネ文明を破壊したとする古典学説に対して,最近では“海の民”を破壊者とみる学説が優勢である。ともあれ,ピュロスやミケーネ出土のリニアB文書にドリス方言が使われていないこと,ホメロスの叙事詩がドーリア人に言及していないことは事実である。ドーリア人の移動をヘラクレス一族の帰還と結びつける古代ギリシアの伝承によると,ヘラクレスの息子ヒュロスが,ドーリア王アイギミオスのもとに赴き,その養子となった。彼の子孫はドーリア人の先頭に立って奮闘し,失敗を重ねながらペロポンネソスに侵入し,ラコニア・アルゴス・メッセニアと分散していった。ヘラクレスとの結びつきはドーリア人の侵略と支配の正当化のために考案されたのであろうが,オリンピア→デルフォイ→ナウパクトス→コリント湾の渡海→ペロポンネソス半島という“帰還”の経路は容認できるように思われる。スパルタの詩人テュルタイオスもヘロドトスもそう主張している。とすれば,コリント地峡通過はこの時期ではなく,のちのメガラ地方のドーリア化に帰せられるべきかもしれない。伝承はまた有名な3部族制の起源をも説明しているが,ヒュレイスはイリュリア系,デュマネスはギリシア系,パンフュロイは文字通り“全部族”の混合体と解釈することができ,移動に先立って行われた部族編成の様子を暗示しているのである。ドーリア人はスパルタ・アルゴス・シキュオン・コリントス・メガラの諸ポリスをつくり,エーゲ海のクレタ・メロス・テラの島々,小アジア西岸のロドス・コス・クニドス・ハリカルナソスに定住した。ドリス系ポリスがその後の政治的・経済的発達の過程で二つの方向をとったことは注目すべきである。スパルタやクレタの諸ポリスでは3部族制が固持されて,支配階級を形成し,被征服民を農奴とした。このため軍事国家の道を歩むことになる。他方,シキュオンやコリントスなどのポリスは,商業を発達させ,早くから3部族制が崩れ,征服者と原住民の同化がすすんだ。その過程で僣主の登場がみられたことも特色の一つである。ドーリア人は文化面でギリシア史に大きく貢献した。製陶(コリントスやスパルタ)・建築・叙事詩・彫刻の各分野での活躍はイオニア文化(前6世紀)にはるかに先駆けている。ドーリア人は数多くの植民市を建設したが,そのなかにはシラクサとケルキュラ(母市はコリントス),タラス(タレントゥム,母市はスパルタ)・ビザンティオン(母市はメガラ)が含まれている。
cf.300公式HP.←ここから私はポスターを6枚全部ダウンロードしましたっ。やっほいほい!
yahoo300には ↓次のような解説とあらすじがあった。
解説: 『シン・シティ』でも知られるフランク・ミラーのグラフィック・ノベルを基に、スパルタの兵士300人がペルシアの巨大軍と戦う姿を描いたアクション超大作。監督は『ドーン・オブ・ザ・デッド』のザック・スナイダー。屈強なスパルタの王レオニダスを『オペラ座の怪人』のジェラルド・バトラーが演じる。色彩のバランスを操作し、独特の質感になるよう画像処理を施した斬新な映像美とともに、屈強な男たちの肉体美も見どころとなっている。(シネマトゥデイ)
あらすじ: 紀元前480年、スパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、ペルシアの大王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)から服従の証を立てるよう迫られる。そこで、レオニダス王が取った選択肢は一つ。ペルシアからの使者を葬り去り、わずか300人の精鋭たちとともにパルシアの大群に立ち向かうことだった。(シネマトゥデイ)
cf.スパルタ
============
*無法松の一生は三船敏郎主演のを見たわけだが、これも往年の名画の一つである。脇役陣もしっかりしていて、とりわけ相手役の高峰秀子が私には良かった。ぽわぁ~ん。昔見たような気もするけど、私が思っていたよりも遥かにほのぼの系の大作である。
無法松の一生(1958)(1958) - goo 映画
解説
岩下俊作の原作から故伊丹万作と稲垣浩が脚色、「柳生武芸帳双龍秘劔」の稲垣浩が再び監督する往年の名作の再映画化。撮影は「遥かなる男」の山田一夫が担当した。「柳生武芸帳双龍秘劔」の三船敏郎、「張込み」の高峰秀子という顔合せに、芥川比呂志、笠智衆、宮口精二、多々良純、有島一郎などが出演。色彩はアグファカラー。
ネタばれあらすじ
明治三十年の初秋--九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきた。芝居小屋の木戸を突かれた腹いせに、同僚の熊吉とマス席でニンニクを炊いたりする暴れん坊も、仲裁の結城親分にはさっぱりわびるという、竹を割ったような意気と侠気をもっていた。日露戦争の勝利に沸きかえっている頃、松五郎は木から落ちて足を痛めた少年を救った。それが縁で、少年の父吉岡大尉の家に出入りするようになった。大尉は松五郎の、豪傑ぶりを知って、彼を可愛がった。酔えば美声で追分を唄う松五郎も、良子夫人の前では赤くなって声も出なかった。大尉は雨天の演習で風邪をひき、それが原因で急死した。残る母子は何かと松五郎を頼りにしていた。松五郎は引込み勝ちな敏雄と一緒に運動会に出たり、鯉のぼりをあげたりして、なにかと彼を励げました。そんなことが天涯孤独な松五郎に、生甲斐を感じさせた。世の中が明治から大正に変って、敏雄は小倉中学の四年になった。すっかり成長した敏雄は、他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせ、松五郎を喜ばせた。高校に入るため敏雄は小倉を去った。松五郎は愛するものを奪われて、めっきり年をとり酒に親しむようになった。酔眼にうつる影は良子夫人の面影であった。大正六年の祇園祭の日、敏雄は夏休みを利用して、本場の祇園太鼓をききたいという先生を連れて小倉に帰って来た。松五郎は自からバチを取った。彼の老いたる血は撥と共に躍った。離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめて打つ太鼓の音は、聞く人々の心をうった。数日後、松五郎は飄然と吉岡家を訪れた。物言わぬ松五郎のまなこには、涙があふれていた。それ以来、松五郎は夫人の前から姿を消してしまった。雪の降る日、かつて敏雄を連れて通った小学校の校庭に、かすかな笑みをうかべた松五郎が倒れていた。残された柳行李の中には、吉岡家からもらった数々のご祝儀の品々が手をつけられずにあった。その奥底には敏雄と夫人宛の貯金通帳もしまわれていた。良子夫人は冷い亡きがらに取りすがって泣きくずれるのだった。
↑ 以上引用はgoo映画より。
============
cf.地下鉄に乗って公式HP.
絶縁状態の父親が倒れたという知らせを受けた日、小さな衣料品会社の営業マン・長谷部真次は、いつものようにスーツケースを転がしながら地下鉄で移動していた。そこに突然、亡き兄が姿を現す。兄の背中を追って地下通路を抜けると、そこは昭和39年の東京だった。ほどなくして真次は無事現在に戻ってくるが、後日、今度は恋人の軽部みち子も一緒に昭和21年に遡り、闇市でしたたかに生きる若き日の父・小沼佐吉に出会う。
大都会・東京の地中深く縦横無尽に張り巡らされた地下鉄路線。多くの人々にとっては何の変哲もない日常の移動手段に過ぎない。そこから逸脱し、過去に旅する主人公の真次とみち子は、図らずもお互いの絆を深めることになるのだが。演じる堤真一、岡本綾と一緒に見る者も、地下鉄の轟音と共に過去へ連れ去られる。直木賞作家・浅田次郎の自伝的要素の強い同名小説を原作に、一筋縄ではいかない父と子の愛憎や、愛する男を幸せにするために非常な決断を下す女心がエモーショナルに描かれる。大沢たかおが出征直前の若者から、威圧的な父親までを一気に演じれば、真次を過去に誘う恩師役の田中泯が圧倒的な存在感で異彩を放つ。
↑ 以上引用はgoo映画より。
地下鉄(メトロ)に乗って - goo 映画
============
*東京の地下鉄は複雑だね。大阪のは中心部ではほぼ格子上に交わっているから大抵はどれに乗っても乗り換え出来るようになっている。名古屋、京都はもっと単純だ。
東京は都区内フリー切符(一日乗車券の一種)はまだあるのだろうか。あれは確かJRも地下鉄も都バスもOKだったからとても便利だった。大阪は『一日乗車券』というのはあるけど、使えるのは地下鉄と市バスだけだから自由度は小さい。でも毎週金曜日と毎月20日はノーカーディと言って通常800円のところ600円になるからこれは『お値打ち』である。(←名古屋の人は『お買い得品』『特売品』のことを『お値打ち』と呼ぶのである。w)
*それでこの『メトロに乗って』(06年公開)だが、なんというか、全般に作り方が若過ぎるのだな。つまり幼稚だ。笑。
大沢たかおの老け役には無理があったし、何回もタイムスリップしてその度過去の父親とぴったりご対面するという、身も蓋も無い『超ご都合主義的ストーリー展開』も気に食わなかったが、まあそれなりに楽しんで見たから良しとするか。w
ただ元々の本が悪いのか、『愛人』の身分の若い女性(岡本 綾)が相手の男性とその家族の立場を思って身を引くという結末は如何にも古めかしく、倫理臭が芬々としていて不愉快だった。不倫が罪というならその報いは男女公平に受けて然るべきである。