「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

3、マドリッド ⑧

2022年09月22日 08時39分34秒 | 田辺聖子・エッセー集










・マドリッドへせっかく来たのだから、
フラメンコを見にいく。

闘牛は時期はずれでやっていないが、
やっていても私には見る勇気はなく、
この頃、動物の死を見て、

「まなこうるむも老いのはじめや」

テレビで古いアメリカ映画を見ていたら、
ひと昔前の映画だから、
猛獣がジャカスカ撃たれたり、刺されたり。

猛獣に罪はないので、
襲われるようなところを徘徊する人間に、
罪があるのだ。

人を襲うのは猛獣の自然なのだから、
しかたがない。

いや、その映画では変なところがまだあった、
なんでそんな奥地へ出かけるかというと、
奥地に出土する貴金属を求めて、
冒険の旅に出るというのだ。

欲につられて、という設定はもう、
現代の我々には説得力がなくなってしまった。

貴金属を発見して、
うまく持ち帰って巨万の富を得たとしても、
そのあとはむなしいばかりである。

これがアフリカ奥地にねむる古代文明のあとを訪ねて、
というような冒険であれば、
最後まで興味をつなぐことが出来るかもしれないが。

ひと昔前の映画、というゆえんである。
テレビでやる昔の映画は、玉石混淆もはなはだしい。

また横道にそれた、
フラメンコ、フラメンコ。

洞窟のような舞台は、
写真や絵でよく見るものである。

唄い手は小柄な、猿顔の爺さんで、
この人は有名らしく、レコードも出している。

ホトトギス氏は、いかなる連想か、

「豊臣秀吉みたいな感じですね」という。

舞手の女は九人ばかり。

その中央に、大奥取締りというか、北の政所というか、
ご老女タイプの女が坐って、踊り子を統率していた。

ダンサーは端から一人ずつ出て、
爺さんの唄に合わせ、踊ってゆく。

スペイン女らしい、白い肌、黒髪の女、金髪女、
黒人風、色の浅黒いジプシー風、
とりどりの女が、きれいな衣装で舞台に並ぶ。

みな美しいが、とりわけスペイン女は美女である。
踊りも巧かった。

最後に大年増が、真打ちというか、
おもむろに立って躍ったが、これがすごい迫力、
それまでの美女の踊りの印象は消し飛んでしまった。

豊臣秀吉爺さんの唄もひときわ、哀々と澄んでいた。

フラメンコは、このごろ日本でも踊る人が多く、
神戸・生田神社の観月の宴のときの、
奉納舞踊にもなっている。

なんで神さんにフラメンコを奉納するんですか、
ときいたら、宮司さんは、
そもそも昔から神さんには海の幸、
山の幸をお供えする。

舞楽も海の向こうから来たものを奉納して、
お慰めしても、ちっともけったいやない、
という説明であった。

私は若い美女の踊りより、
大年増の踊りのほうが身に沁みたのだが、
シャンソンと同じで、フラメンコもきれいに踊りゃいい、
というものではないのかもしれない。

爺さんの唄はまた、
仕事に倦み疲れたとき、
越し方行く末を思って、
思わず出るため息のように聞かれる。

そうして、あとを引く酒のように、
ふしぎにいっぺん見ると病みつきになる。

衣装の色はそれぞれきれいなのだが、
水玉模様が多い。

重そうな裾をさばくには、
かなりのエネルギーがいるのではないかしら。

午前一時半、第一回のプログラムが済んで、
そのころからまた、観光客がつめかけてくる。

夜の遅い町だが、
車を拾おうと外へ出ると、
さすがに寝静まっていた。






          


(次回へ)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3、マドリッド ⑦

2022年09月21日 13時07分41秒 | 田辺聖子・エッセー集










・日本は、いかに高級であろうと、
必ずクチバシの青い若造が、
女をつれてきていたりする。

新幹線のグリーン車に、
青年がふんぞりかえって坐っていたりして、
私はあんなのを見るとカッとする。

電車で生意気な中学生たちが、
席を取り合ってズラリと坐り、
大人をにらみすえているのを見ると、
血の気の多い私は、またカッとする。

この世に生きてまだ日が浅く、
親にも社会にも、
受けた恩恵のお返しはしていないのに、
なぜそう、でかい態度でのさばるのか、
といいたいのだ。

若いうちは満員電車の中で立ち、
新幹線は自由席で立ち、
高級料理など要らざる奢りである。

中年も若者もごっちゃにするのを、
私はほんとの平等、自由とは思わない。

営々と働いてきた中年者が、
若者と別の文化を持って当り前である。

大人の楽しみというのが、
若者ときっかり一線を劃されてしかるべきである。

日本みたいに、
大人も若者も子供も、
ずるずるいつまでもくっついている社会では、
永久にホントの大人ができないのは当り前だ。

どことなく日本人というのは、
未熟なところがあり、
大人になりきれない人種であるが、
それは際限なく、大人の世界へ、
若者や子供が踏み込むのを許すからである。

私は、
大人の集りへ子供を連れてくる人がいちばんかなわない。

劇場でも幼児をつれてきて、
泣かせて平気な女がいるが、
そういう人たちに言わせると、

「私にも芝居を見る権利はある」

というのだから、たすからない。

子供をつれてくるなら、
睡眠薬でも飲ませて静かにさせておく義務がある。

子供の小さいうちは、
芝居なんか見る権利はないのである。

こういうと、
怒る人がいるだろうなあ。
当然のことながら。

しかし、嫌煙車をつくったり、
嫌煙権を主張するなら、
嫌児権も認めてもらいたい。

子供嫌い、という一般社会人も、
かなり潜在的に多いのだ。

そういう意味では、
マヨール広場ちかくのレストランは、
まことに居心地よく、若者もいなければ、
走り回って目障りになる子供もいない。

イヴニングドレスとまではいかないが、
カクテルドレスぐらいの服を女たちは着こみ、宝石を身につけ、
男たちはきちんとネクタイをむすび、
カフスボタンに金や光ものの石をつけたりしている。

ワイングラスをあげ、
ナイフとフォークをふりまわして、
男も女もわれ劣らじとしゃべり、
もう、我々のしゃべる声さえ聞こえない。

「よくこれだけ、中年老年が集まりましたねえ」

ホトトギス氏は呆然としている。

「日本やったら、
受験勉強の夜食を作っている年ごろのおばはんです」

おっちゃんも感無量である。

「なんであない、笑うことがあるのか、
女はどこへ行っても気楽なんですなあ」

「いや、男だって笑ってますわよ」

税金も商売もうち忘れ、
男たちも頬ひげをふるわせてどっと笑う。

中年男女が、
打ち混じってしゃべっているのがうらやましい。

ここが大切なところ。

日本では、男は男同士、女は女同士、
しゃべって面白がるくせに、
男女混合するととたんに、
退屈そうになる。

すべて、男と女が混じってこそ、
本当に面白いのに。

イタリアもそうだが、
スペインもかなり家族主義。

昼間に入ったレストランでは、
一家そろってというのが多く、
中に、四人の女が食事をしていた。

これがみな年代がちがう。

「女学校の同窓会でもなし」
「何かの会員の集りでもなし」
「顔が似てる気がします」

と盗み見て、私は、

「あれは、女四代ですよ。
マドリッドの『紀の川』ね、
ひいおばあさんに、おばあさん、母と娘、
というところね」

なるほど!と一同ハタと手を打ったのである。
そういうのが実に多い。

そんな社会、大変だろうなあ、というのはわかる。

「親類なんて、切ろう、切ろう、と思うてんのに、
これだけは願い下げですなあ」

とおっちゃんはいう。

「友人で仲良くしておるのがいちばん。
いやになったら離れられるし」

さて、私たちがここで食べたのは、
コンソメスープにオムレツ、
(スパニッシュで、玉葱、じゃが芋、などが盛大にはいってる)
ロブスターのグリル、
1キロのロブスターが二千五百ペセタ、
伊勢エビだけで七千円、
スペイン料理としては最高に高いが、
三人で食べてお腹がいっぱいになる。

いや、スペイン中年のはしゃぎぶりにあてられて、
お腹が大きくなった、というところかもしれない。






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3、マドリッド ⑥

2022年09月20日 09時05分55秒 | 田辺聖子・エッセー集










・しかし、本当のレストランへ行くと、
小さい子供は意外にというか、当然というか、
来ていないのである。

そうして見わたす限り、
夜中近い時間を謳歌しているのは、
優雅な中年ばかりであった。

翌晩に行った、マヨール広場近くの店がそうである。

マヨール広場の七時、八時、九時という時間、
若者が広場のまん中、ぐるりの回廊にも、
いっぱい群れていた。

何するでもなく群れている。
彼らが集まって放歌している店もある。

「旧制高校のストームのような感じですなあ」

おっちゃんは若者のエネルギーがむんむんするさまに、
ちょっとへきえき気味のようである。

マヨール広場は、回廊にかこまれた石だたみ、
昔はここで闘牛が行われたというが、
まん中にフェリペ三世の銅像が建っていた。

甲冑をつけた騎馬の勇ましい姿である。
日本でもそうだけれども、

「なんで、銅像は勇ましい姿なんでしょうね」

とみんなでふり仰ぐ。

「しかし、やはり、一ばん見て欲しい姿を、
ということになると・・・」

「寝間着にナイトキャップという姿は、
収拾つかないからです」

「でも、西郷さんみたいに、
普段着の人もいますから」

女から見ると、
普段着の銅像のほうが、
親しみやすくていいように思われるが、
男性文化では「親しみやすい」ことは、
尊重されないのである。

銅像はさておき、
スペインで敬服するのは中年がしたたか、
人生を楽しんでいること。

マヨール広場近くのレストランへ入ったら、
夜九時、これでも客はまだまばら、
ここはきちんとしたレストランで、
ボーイがうやうやしくメニューを持ってくる。

閉店近いので客が少ないのかと思っていると、
ワインがくるころから、どんどん客が混みはじめた。

これが見ていると、
夫婦二組、三組、というようなのが多い。

夫同士、妻同士仲良くしゃべり合ったりして、
会食を楽しんでいる。

私たちは窓ぎわの席であるが、
横は中年の夫婦、これは結婚生活も長いのか、
さしてしゃべるでもなく、黙々と料理を平らげる。

夫は五十そこそこ。
妻は四十五、六ぐらい、
外国人の年齢を当てるのはむつかしいから、
もっと若いのかもしれないが、
双方、別に険しい雰囲気もなく、
仲良さそうに黙っている。

「やはり、外人も、
モノ言わない夫婦もいるんですなあ」

おっちゃんは感心する。

当の夫婦は、
テーブルの上に大皿のロブスターを盛り、
双方から手を出して食べているが、
かなり食べつくして、
夫は残りを妻に、

(食うか?オマエ)と目で聞き、
(もう結構、アンタ食べて)という目つきで、
夫は安心して平らげてしまった。

口の利けない夫婦ではなく、
最初にメニューを見て決めるときは、
投げつけるような威勢のよい巻き舌で給仕と渡り合い、
妻も負けじと口を出し、
ああでもない、こうでもないの末、
決まった献立である。

しかし、そういう静かに食べる夫婦はむろん例外で、
いまや店内は、どなり散らすスペイン語で喧騒のるつぼ、
そうして女たちのけたたましい笑い声。

どんどん明けられるワイン。

しかも見わたして壮観なのは、
店内、中年、老年ものばかり。
はっきり、若者の連れはいないのだ。

この店は高級レストランなので、
学生が小エビ屋へ行くように、
気軽に来られない、ということもあるだろう。






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3、マドリッド ⑤

2022年09月19日 08時08分02秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私も早寝早起きのほうだから、
スペイン男とは連れ添えない。
残念である。

「お料理もなさるわけですか」

と若いホトトギス氏は、
まず日常の食べ物が気になるようであった。

「しますよ。
スペイン料理。
あたしがこっちに来て、
パエリアなんか作ったもんだから、
姑さんがびっくりして、
おや、あんたどこでそんなこと習った、っていうの。
あんたの息子に習うたがね、というと、
『ウチの息子は、こっちにいるときは、
台所に入ったこともなかったのに』
とふくれていたりして」

姑かたぎ、というのは、
世界中どこでも同じである。

スペインへ戻ってきた王様のことを、K夫人は、

「いろいろ大変だろうと思いますねえ。
かわいそうに」

いま、マドリッドの週刊誌をにぎわせているのは、
ナントカ公爵夫人だか伯爵夫人だかの再婚話、
大金持ちの貴族なので世間の興味をあつめているらしい。

美しい婦人と、貴族の遊蕩児といった中年男性が、
仲睦まじく寄り添っている写真があった。

食事も酒も中途半端になった、というので、
プエルタ・デル・ソルちかくの料理屋をのぞいて、
パエリアを食べることにする。

サフラン入りの黄色いごはん、
貝や魚を炊き込んだ、炊き込みごはんである。

三十分以上待って出てきたのは、
大ぶりな鉄鍋にムール貝、エビ、白身の魚、
ピーマンやグリンピースで飾られた、
香ばしい匂いのする熱い黄色いごはん、
まあ、なんというか、実に美味しいけれども、
いうなら海浜チャンコ鍋、海賊料理という、
野外の宴会料理である。

かつまた、これも、小エビ鉄板焼きと同じく、
「男手料理」というたぐいのもの。

あとでパリで食べたフランス料理に比べると、
「ぶった切って」「鍋に突っ込み」
「そのへんのものをぶちこんで」「火を入れた」
という感じの荒々しさ、
スペイン料理に比べるとフランス料理は、
ピレネー山脈一つ越えただけで、
「刻んで」「すりおりして」「絞って」「煮て」
「味付けして」「冷やして」「ソースをかけて」
という離乳食のごとき、手のこんだものになり、
これは全く「女性料理」の感じ、
むろん、スペイン料理にしろフランス料理にしろ、
プロの店で出す皿は、
細心の注意と技術で以て仕上げられているのに、
ちがいないけれど。

パエリアは、給仕の男が器用に皿に分けてくれ、
ふんだんにレモンを切ったのを添えてくれる。

これを熱々の黄色い炊き込みごはんにかけて食べる。
ぱっくりと口を開けたムール貝やエビに、
惜しげもなくレモンを絞る。

かなりの量だと思ったが、
おいしいので難なく平らげてしまった。

そのころは十一時、
店の賑わいはたけなわである。

どこかで一ぱい飲んだあとの腹ごしらえか、
シべーレス広場の、
照明に照らされた獅子の噴水を見てきたのか、
スペイン広場の、
セルバンテス記念碑のそばを通ってきたのか、
夜が更けるにしたがってますます酔いにたかぶり、
花やいだスペイン語が嵐のように飛び交う。

このパエリアを出すバレンシア料理の店は、
家族向きらしく、小さい子供がいるのだが、

「またよくつきあいますよね、
小さい子が、こちらでは」

というK夫人の話で、
子供のときから宵っぱりの習慣がつけられるらしい。






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3、マドリッド ④

2022年09月18日 08時46分08秒 | 田辺聖子・エッセー集












・野菜ばかりの店、
こちらでは、アルカチョパという、朝鮮アザミ、
それに玉葱、アスパラガスにピーマンなどが、
店のショーウィンドーにいっぱいつめこまれて、
ツヤツヤ輝いている。

ここへ入ってみたら、
さっきのエビ焼き屋より、やや高級で、
来ている客も学生なんかいず、
中年の家族連れである。

マッシュルーム、ピーマン、アスパラガスを、
オリーブ油でいためたものが出てくる。

塩が利いていて、そうくどくはなく、
これまた、ワインのつまみに好適。

オリーブ油は、
日本で食べるとしたら、
どうかわからないが、
全く臭くはなく、
あとで別の店でイワシのから揚げを食べたけれど、
カラッと揚がっていくらでも食べられた。

おっちゃんは野菜炒めを食べるとき、
なめし皮のジャンパーに油がドロリとこぼれ、
店の男たちは恐縮して、シミ抜きをしてくれる。

脱いで渡すと、
ノミとり粉のような白い粉を盛大にふりかけて、
そのまま、置いていた。

皮製品を扱いつけている国だから、
男たちも慣れた手つきである。

あとでパッパと振り払うと、
シミはまだ残っていたが、かなり薄くなっていた。

黒眼の肥満した給仕が、
どなるようなスペイン語で、
K夫人に恐縮していた。

これぐらいしか取れない、
というのだそうである。

シミ取り粉を、
いつも店に置いているところをみると、
油をこぼす客も多くいるのかもしれないが、
スペイン語は恐縮するときも、
どなるように聞こえるのである。

凄い巻き舌と早口で、
言葉は疾風怒濤のよう、
とにかく、すべて、何かにつけて、

「荒々しいですな」

とおっちゃんと言い合う。

「夫婦ゲンカのときは大変でしょうねえ」

K夫人に聞いたら、

「あたしゃ、ケンカになったら、
タンカを切りますから。
こんなトコ、来たくて来たんじゃないよ、
といってやると亭主は黙りますね」

スペインは男権が強くて、
家では男が絶対の権力を手にしており、
社会でもそうであるが、女はひと昔前の日本のように、
男にはあたまが上がらないのが建前である。

しかし、たいてい、建前と内幕は別になっていて、
ちょっと見ただけでも、
スペイン男は女の顔色をよく見ていた。

昼間、プエリタ・デル・ソルの広場で、
デモを見たけど、女性が先頭を歩き、
あるいは旗をかかげて気勢をあげ、
行列をととのえるため号令をかけたりしていて、
かなり活発である。

「夫婦ゲンカの原因って何ですか」

「つき合いに関することじゃないかしら、
何しろ、夜の遅い国でしょう、
夫婦単位でのおつき合いだから、
あたしも出ないといけないけれども、
夜、十一時、十二時からはじまるパーティなんて、
眠くて眠くて。
向こうは平気だけど、
こっちはつき合いきれなくて、
それでケンカになっちゃいます」

向こうというのは亭主である。

「日本の女を女房にしている家庭では、
よくそれがケンカのたねになるみたい。
反対に日本の男を亭主にしている家庭では、
亭主が日本の流儀で、
夜、客をつれて帰ると、
スペイン女はドアをピシャッと閉めて、
『あたしゃそんな人を招待してない!』
と断るらしいです。
それでよくこぼしてますね、日本の男の人」

「はは~ん、
するとスペイン女をヨメはんにするのは、
考えもんやなあ」

おっちゃんは深刻に考え込み、
それまでは、どの女を見ても「カルメンみたいや」
といっていたのであるが。






          


(次回へ)

画像はスマホ画面をデジカメで撮りました。

BSプレミアムで再放送されていた、
2006年後半からの朝ドラ「芋 たこ なんきん」
昨日17日(土曜日)が最終回でした。

田辺聖子さんの自叙伝で、
藤山直美さんと國村隼さんがご夫婦役を演じられ、
カモカのおっちゃんのお葬式で幕が閉じました。

最後の最後で田辺さんも出られて、
なつかしかったです。

楽しい半年間、ありがとう!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする