「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

16、中流ニンゲン ③

2022年08月20日 08時34分25秒 | 田辺聖子・エッセー集










・中流ニンゲンはこういうものだ、
と具体的に例示できればいいのだが、
これはひどく抽象的な存在なのでむつかしい。

しかし、こういうのは中流ニンゲンではない、
というのはいえそうである。

中流ニンゲンは、いろんな矛盾に気付いている。

街に美食はあふれているのに、
朝食を食べさせられないで登校する小学生。

遠足の弁当に、
ラーメン一袋持たされる中学生。

食事の材料が説明つきで配達される、
あのおしきせのオカズを買う人々の中で、
意外に多かった専業主婦。

一家でピクニックに行くらしい姿を、
「幸福そうだなあ」とほほえましく見ていたら、
奥さんの持つ籠の中に、
ほっかほか亭だかぬくぬく屋だから、
買いこんだ弁当が数個抛り込んであって、
中流ニンゲンはびっくりする。

なぜお母さんがむすんだおにぎり弁当を、
持って行かないんだろう、
と中流ニンゲンは不思議でならない。

子供たちに手づくりの食べ物を与えないやり方は、
中流ニンゲンのとる道ではない。

中流ニンゲンは、元来保守堅実であるがしかし、
社会の意識革命には敏感であって、
決して旧来の伝統や偏見に固執しない。

中流ニンゲンは結婚についても一家言あるから、
あるいは独身のままかもしれない、
また結婚しても、子供を持とうとしないかもしれない。

それを異端者のように責めたり、
不思議がったりする世間が、
単身赴任者や出稼ぎを不思議がらないのを、
中流ニンゲンは矛盾と感じる。

独身を通すことが不自然なら、
夫婦が別れて住むのはもっと不自然である。

中流ニンゲンは、
単身赴任者も出稼ぎも、
あるべき形ではないと思う。

子供や教育でいえば、
子供はもっと自然にのびのびと育てられなくてはならないのに、
タガにはめ管理され、鋳型に入れて同じ型に作られてしまう。

テストと人工のものだけに取り巻かれ、
自然からますます遠ざけられる子供たち。

そうして生意気盛りになると、
偏狭で固陋な理屈で大人を屈服させようとする青年たち。

中流ニンゲンは子供とわたりあって、
決して退かず、黙り込んだりしない。

といって高圧的に押さえこんだりしない。

高圧的に是非を問わず、
時には体罰も辞さず、子供に、
社会最低のルールや人間の心得を教え込むのは小学生までで、
そのあとの年ごろは議論でいくほかない。

中流ニンゲンには大人のキャリアがある。

それと長年鍛えている論理感覚と、
適切な言葉の選択能力がある。

中学生や高校生と議論して、
言い負かされるようではいけない。

もっとも向こうが議論に応じてくれれば、の話だが。

こういうあらまほしい中流ニンゲン像からいくと、
私はどうも中流ニンゲンではなさそうである。

恒産を作ろうともしないわりに、
パッパの浪費家であり、
自分なりの一家言は持てずおろおろし、
人生を楽しむには時間がなさすぎる。

私は中流ではない、
と断じざるを得ない。

自分にないものをあつめると、
理想はとめどなく肥大してゆくらしい。






          


(了)

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