
・中流ニンゲンはこういうものだ、
と具体的に例示できればいいのだが、
これはひどく抽象的な存在なのでむつかしい。
しかし、こういうのは中流ニンゲンではない、
というのはいえそうである。
中流ニンゲンは、いろんな矛盾に気付いている。
街に美食はあふれているのに、
朝食を食べさせられないで登校する小学生。
遠足の弁当に、
ラーメン一袋持たされる中学生。
食事の材料が説明つきで配達される、
あのおしきせのオカズを買う人々の中で、
意外に多かった専業主婦。
一家でピクニックに行くらしい姿を、
「幸福そうだなあ」とほほえましく見ていたら、
奥さんの持つ籠の中に、
ほっかほか亭だかぬくぬく屋だから、
買いこんだ弁当が数個抛り込んであって、
中流ニンゲンはびっくりする。
なぜお母さんがむすんだおにぎり弁当を、
持って行かないんだろう、
と中流ニンゲンは不思議でならない。
子供たちに手づくりの食べ物を与えないやり方は、
中流ニンゲンのとる道ではない。
中流ニンゲンは、元来保守堅実であるがしかし、
社会の意識革命には敏感であって、
決して旧来の伝統や偏見に固執しない。
中流ニンゲンは結婚についても一家言あるから、
あるいは独身のままかもしれない、
また結婚しても、子供を持とうとしないかもしれない。
それを異端者のように責めたり、
不思議がったりする世間が、
単身赴任者や出稼ぎを不思議がらないのを、
中流ニンゲンは矛盾と感じる。
独身を通すことが不自然なら、
夫婦が別れて住むのはもっと不自然である。
中流ニンゲンは、
単身赴任者も出稼ぎも、
あるべき形ではないと思う。
子供や教育でいえば、
子供はもっと自然にのびのびと育てられなくてはならないのに、
タガにはめ管理され、鋳型に入れて同じ型に作られてしまう。
テストと人工のものだけに取り巻かれ、
自然からますます遠ざけられる子供たち。
そうして生意気盛りになると、
偏狭で固陋な理屈で大人を屈服させようとする青年たち。
中流ニンゲンは子供とわたりあって、
決して退かず、黙り込んだりしない。
といって高圧的に押さえこんだりしない。
高圧的に是非を問わず、
時には体罰も辞さず、子供に、
社会最低のルールや人間の心得を教え込むのは小学生までで、
そのあとの年ごろは議論でいくほかない。
中流ニンゲンには大人のキャリアがある。
それと長年鍛えている論理感覚と、
適切な言葉の選択能力がある。
中学生や高校生と議論して、
言い負かされるようではいけない。
もっとも向こうが議論に応じてくれれば、の話だが。
こういうあらまほしい中流ニンゲン像からいくと、
私はどうも中流ニンゲンではなさそうである。
恒産を作ろうともしないわりに、
パッパの浪費家であり、
自分なりの一家言は持てずおろおろし、
人生を楽しむには時間がなさすぎる。
私は中流ではない、
と断じざるを得ない。
自分にないものをあつめると、
理想はとめどなく肥大してゆくらしい。



(了)