・中流ニンゲンは広告に釣られたり、
人と競争することがないから、
たとえば結婚式に金をかけるということはしない。
ほんの数十分借りるだけの衣装に、
何十万も投ずるという愚は行わない。
収入と資産に見合ったやり方を取ろうと思う。
アイディア次第でどんなにも派手に出来るという、
才覚をたのしむのが中流ニンゲン。
何しろお金を使うことには渋いのが身上だから、
お金の値打ちを知っていて、
すべて実質で勝負しようとする。
料理は身内の女たちが寄って作ればいいのだ。
市民会館の一室を借り切って、
みんなが持っている服の中でいちばんいいのを着て集まる。
そんなことでいいのである。
つまらぬ祝辞や友人のスピーチなど要らない、
というのが中流ニンゲン。
新婚旅行にはリュックを背負ってサイクリングしよう、
などと考えるのが中流ニンゲン。
自分が金使いに渋いということは、
他人の渋さも認めることであるから、
中流ニンゲンの男女は、
親の金をアテにしたりしないのである。
何百万もかけて嫁入り支度をしてもらう、
それで父親の退職金がふっとんでしまうという哀れなことは、
とっても出来ないのが、中流ニンゲン。
親から金は出させて口は出させないという、
理屈に合わぬことをしないのが中流ニンゲン。
中流ニンゲンは早く自立する。
そうして自分の財布を早く持ち、
財布を持つことで自分の人生の第一歩をふみ出す。
それはまた、お金に渋くなる第一歩である。
人間は社会の中でたくさんの仲間と共生しているから、
自分の流儀と違うやり方とも協調しなければいけない。
いかに自分が中流ニンゲンで、
世の風潮に逆らっていると自負しても、
それを他に強制したり、誇ったりしてはいけない。
そこに中流ニンゲンの二つ目の眼目がある。
個性を確立し、
まわりと協調するというのが中流ニンゲン。
お金に渋いだけでは吝嗇に終わるから、
渋いなら渋いことについての一家言がなければならない。
お金を貯めるだけ、
というのでは単なる強欲で、
そういうのは中流ニンゲンでないばかりか、
人間ともいいにくい。
人間はこの世に生きている限り、
楽しく過ごさなければ、
それもまわりの人をも楽しませ、
人をたすけたりたすけられたりして仲良くしつつ、
みんなで気持ちよくトシ取る、
ということに尽きると思う。
中流ニンゲンは心の底でそう思っているから、
決して吝嗇強欲から、お金に渋いのではないのである。
何につけ、それなりの一家言をもっている、
ということが大切である。
この一家言を持つ、というのが、
出来そうで中々むつかしい。
中流ニンゲンであることがむつかしいのは、
この一点にある。
恒産を成すのは、
いささかの才とチャンスに恵まれれば、
あるいは成功するかもしれないが、
二つ目の眼目である「自分なりの一家言」を持つことは、
ちょっと修行が要る。
しかしそれこそが、人間のほんとの教養である。
しかもこれは学問のあるなしに限らないから困るのだ。
最高学府を出ていても、
外国語が読み書き出来ても、
自分なりの一家言を持てない人が多い。
中流ニンゲンは若年のうちから、
「自分なりの一家言」を持つ能力を磨き、
育てることにつとめる。
どんなにちっぽけな意見でも、
自分の意見だと思うとそれを大切にし、
誇りにするのが中流ニンゲン。
恒産を持ち、自分なりの一家言を持つ人は、
得てして傲慢になりやすい。
他の人が阿呆に見えたりして、辛辣になる。
恒産なくして自分なりの一家言を持つ人は意外に居り、
これは往々、批評家と呼ばれているが、
こういう人の中には傲慢なタイプが多い。
たしかに自分なりの一家言を、
毒舌に使うのは快感があるが、
それは愉しかるべき人生の、ほんの一部分。
自分なりの一家言を持って、
それを人と仲良くするのに使うとか、
自分だけのたのしみを開拓するほうに使うのは、
ずっと愉しいことで、これこそ中流ニンゲンの、
あらまほしい姿、といっていい。
(次回へ)