むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

16、中流ニンゲン ②

2022年08月19日 08時28分26秒 | 田辺聖子・エッセー集










・中流ニンゲンは広告に釣られたり、
人と競争することがないから、
たとえば結婚式に金をかけるということはしない。

ほんの数十分借りるだけの衣装に、
何十万も投ずるという愚は行わない。

収入と資産に見合ったやり方を取ろうと思う。

アイディア次第でどんなにも派手に出来るという、
才覚をたのしむのが中流ニンゲン。

何しろお金を使うことには渋いのが身上だから、
お金の値打ちを知っていて、
すべて実質で勝負しようとする。

料理は身内の女たちが寄って作ればいいのだ。

市民会館の一室を借り切って、
みんなが持っている服の中でいちばんいいのを着て集まる。

そんなことでいいのである。
つまらぬ祝辞や友人のスピーチなど要らない、
というのが中流ニンゲン。

新婚旅行にはリュックを背負ってサイクリングしよう、
などと考えるのが中流ニンゲン。

自分が金使いに渋いということは、
他人の渋さも認めることであるから、
中流ニンゲンの男女は、
親の金をアテにしたりしないのである。

何百万もかけて嫁入り支度をしてもらう、
それで父親の退職金がふっとんでしまうという哀れなことは、
とっても出来ないのが、中流ニンゲン。

親から金は出させて口は出させないという、
理屈に合わぬことをしないのが中流ニンゲン。

中流ニンゲンは早く自立する。
そうして自分の財布を早く持ち、
財布を持つことで自分の人生の第一歩をふみ出す。

それはまた、お金に渋くなる第一歩である。

人間は社会の中でたくさんの仲間と共生しているから、
自分の流儀と違うやり方とも協調しなければいけない。

いかに自分が中流ニンゲンで、
世の風潮に逆らっていると自負しても、
それを他に強制したり、誇ったりしてはいけない。

そこに中流ニンゲンの二つ目の眼目がある。

個性を確立し、
まわりと協調するというのが中流ニンゲン。

お金に渋いだけでは吝嗇に終わるから、
渋いなら渋いことについての一家言がなければならない。

お金を貯めるだけ、
というのでは単なる強欲で、
そういうのは中流ニンゲンでないばかりか、
人間ともいいにくい。

人間はこの世に生きている限り、
楽しく過ごさなければ、
それもまわりの人をも楽しませ、
人をたすけたりたすけられたりして仲良くしつつ、
みんなで気持ちよくトシ取る、
ということに尽きると思う。

中流ニンゲンは心の底でそう思っているから、
決して吝嗇強欲から、お金に渋いのではないのである。

何につけ、それなりの一家言をもっている、
ということが大切である。

この一家言を持つ、というのが、
出来そうで中々むつかしい。

中流ニンゲンであることがむつかしいのは、
この一点にある。

恒産を成すのは、
いささかの才とチャンスに恵まれれば、
あるいは成功するかもしれないが、
二つ目の眼目である「自分なりの一家言」を持つことは、
ちょっと修行が要る。

しかしそれこそが、人間のほんとの教養である。

しかもこれは学問のあるなしに限らないから困るのだ。

最高学府を出ていても、
外国語が読み書き出来ても、
自分なりの一家言を持てない人が多い。

中流ニンゲンは若年のうちから、
「自分なりの一家言」を持つ能力を磨き、
育てることにつとめる。

どんなにちっぽけな意見でも、
自分の意見だと思うとそれを大切にし、
誇りにするのが中流ニンゲン。

恒産を持ち、自分なりの一家言を持つ人は、
得てして傲慢になりやすい。

他の人が阿呆に見えたりして、辛辣になる。

恒産なくして自分なりの一家言を持つ人は意外に居り、
これは往々、批評家と呼ばれているが、
こういう人の中には傲慢なタイプが多い。

たしかに自分なりの一家言を、
毒舌に使うのは快感があるが、
それは愉しかるべき人生の、ほんの一部分。

自分なりの一家言を持って、
それを人と仲良くするのに使うとか、
自分だけのたのしみを開拓するほうに使うのは、
ずっと愉しいことで、これこそ中流ニンゲンの、
あらまほしい姿、といっていい。






          

(次回へ)

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