・葬式・結婚式を簡略にすることは、
いつも私の夢想とするところであるが、
これは、自分や周囲の思わく次第である。
自分の葬式は、
自分がどう企画してもせんないことで、
あなた任せである。
故人の遺志、といったって、
それは周囲の事情により、
無視されるかもしれないのだし・・・
それに準ずるものとして、
私は病気のお見舞いというのも、
平素いろいろ考えることがある。
見舞いも簡略なほうがいい。
私は自分がふだん病気しないせいか、
病人を見舞うという器量が自分にないのに気づいた。
病気のお見舞いというのは、
誰にでもできるものではないのである。
もし私が誰かの病気見舞いに、
病院へ行くとする。
人間の貫禄なき私は、
何を手土産にすべきか、
ここでハタと困ってしまう。
花、というのはありふれてると思う。
かつ病室中、すでに花だらけかもしれない。
花だけ持って行っても、
花瓶がなくては困られるかもしれぬ。
花瓶も買うとするか。
しかし、好みがあるかもしれぬ。
いまはやりの花籠、
花が萎めば籠ごと捨てられるというのがいいかも。
しかし、病人によっては、
花アレルギーがあったりするかもしれぬ。
果物籠にするか。
それも病状、容態を考えて選ばねばならぬ。
食べられない病人には、
果物や缶詰は要なきものであろうし、
といって、本も好みがあり、
よけい疲れるかもしれない。
パジャマ、タオルの類も、
場所ふさぎになるかもしれぬ。
あれこれ考えると、
現金がいちばんいいのだろうが、
それも社会慣習上、
身内でなければ失礼にあたるとされている。
戦争中のことであれば、
何を持って行っても病人を喜ばせ、
慰めたであろうが、
かくも物資豊富な世の中になってしまっては、
お見舞いの品の選定はむつかしい。
まあよい、
ともかく何かを携えて私は出かける。
病室を捜し、
ドアをノックする。
大部屋であれば誰かが出入りして、
ドアは開け閉めされることが多いので、
見舞客も入りやすいが、
個室の場合は、たいてい内から返事があって、
付き添いの人とか、身内の人、
奥さんか旦那さんが顔を出す。
奥さんは私をみとめ、
丁重にまず挨拶と謝意を述べられる。
これが私には、気の毒で堪えられない。
奥さんの気持ちの中は、
病人の容態のことしか、ないだろう。
その合間に留守にした家のこと、
子供のこと、心労がわんさかと降り積もる。
それは浮世から離れた別世界である。
そこへ浮世の風が吹きつけてくる。
見舞客が来ると、浮世にすばやく戻って、
浮世なみの礼をいわねばならない。
こっちの病人の世界と浮世の世界との橋渡しを、
奥さんはしなければならない。
その心労を思うと、私は逃げ出したくなる。
ほんとうは、会釈や笑顔や、
礼の言葉は要らないのだ。
病人を抱えている人に、
そんな浮世の義理を強いるのは、
残酷というものではないか。
しかし奥さん、
(旦那さんのこともあるし、息子さん、娘さん、
兄弟であることもあろう。
親御さんであることもあろう)
にしてみれば、
愛想よい態度で、
見舞客に謝意を表明しなければならぬ。
心身疲労している看護の人に対して、
実に気の毒なことであると思わないではいられない。
私は、病室に見舞客の入ってくるのを認めた時の、
奥さんのいたいたしいお愛想に、まず、
(申し訳ない・・・ごめんなさい)
という気になってしまう。
ついでご本人に会う。
これがまた、
来るまでは心から見舞いたくて来たのであるが、
顔を見ると、
(来なければよかった)
と思って、うなだれてしまう。
病人は病人くさい顔になって、
目ばかり動かしている。
往々、その目の色には、
(こういうとこ、あまり見られたくないんだよ、なあ・・・)
というのがある。
私も病人くさい友人は見たくなかった、
という気がある。
そこへ奥さんがお茶を淹れたり、
果物をむいたりして、すすめて下さる。
これは困るものである。
病人の枕元で飲むのも、食べるのも、
何やら健康を誇示するようではばかられる。
慰めの挨拶、
というのが口下手な私にはまたむつかしい。
「思ったよりお顔色もよく・・・」
というと、
よっぽど具合悪いと思うて来たんやろか、
と病人に思われるかもしれぬ。
「早く元気になって下さい」
などというと、
追い立てられるように思って、
病人はかえって落ち込むかもしれぬ。
「まあいい折ですから、
休暇だと思って、ゆっくり養生して・・・」
などというと、
これが人によっては逆効果で、
「そうもしとられまへんのや」
と焦らせたりするかもしれない。
そこはかとなき世間話をして退散、
というのがいいが、
これも持って生まれた身の徳によって出来る人はいいが、
出来ない人もある。
(次回へ)