むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

17、お見舞い ①

2022年08月21日 09時02分34秒 | 田辺聖子・エッセー集










・葬式・結婚式を簡略にすることは、
いつも私の夢想とするところであるが、
これは、自分や周囲の思わく次第である。

自分の葬式は、
自分がどう企画してもせんないことで、
あなた任せである。

故人の遺志、といったって、
それは周囲の事情により、
無視されるかもしれないのだし・・・

それに準ずるものとして、
私は病気のお見舞いというのも、
平素いろいろ考えることがある。

見舞いも簡略なほうがいい。

私は自分がふだん病気しないせいか、
病人を見舞うという器量が自分にないのに気づいた。

病気のお見舞いというのは、
誰にでもできるものではないのである。

もし私が誰かの病気見舞いに、
病院へ行くとする。

人間の貫禄なき私は、
何を手土産にすべきか、
ここでハタと困ってしまう。

花、というのはありふれてると思う。
かつ病室中、すでに花だらけかもしれない。

花だけ持って行っても、
花瓶がなくては困られるかもしれぬ。
花瓶も買うとするか。

しかし、好みがあるかもしれぬ。

いまはやりの花籠、
花が萎めば籠ごと捨てられるというのがいいかも。

しかし、病人によっては、
花アレルギーがあったりするかもしれぬ。

果物籠にするか。
それも病状、容態を考えて選ばねばならぬ。

食べられない病人には、
果物や缶詰は要なきものであろうし、
といって、本も好みがあり、
よけい疲れるかもしれない。

パジャマ、タオルの類も、
場所ふさぎになるかもしれぬ。

あれこれ考えると、
現金がいちばんいいのだろうが、
それも社会慣習上、
身内でなければ失礼にあたるとされている。

戦争中のことであれば、
何を持って行っても病人を喜ばせ、
慰めたであろうが、
かくも物資豊富な世の中になってしまっては、
お見舞いの品の選定はむつかしい。

まあよい、
ともかく何かを携えて私は出かける。

病室を捜し、
ドアをノックする。

大部屋であれば誰かが出入りして、
ドアは開け閉めされることが多いので、
見舞客も入りやすいが、
個室の場合は、たいてい内から返事があって、
付き添いの人とか、身内の人、
奥さんか旦那さんが顔を出す。

奥さんは私をみとめ、
丁重にまず挨拶と謝意を述べられる。

これが私には、気の毒で堪えられない。

奥さんの気持ちの中は、
病人の容態のことしか、ないだろう。

その合間に留守にした家のこと、
子供のこと、心労がわんさかと降り積もる。

それは浮世から離れた別世界である。
そこへ浮世の風が吹きつけてくる。

見舞客が来ると、浮世にすばやく戻って、
浮世なみの礼をいわねばならない。

こっちの病人の世界と浮世の世界との橋渡しを、
奥さんはしなければならない。

その心労を思うと、私は逃げ出したくなる。

ほんとうは、会釈や笑顔や、
礼の言葉は要らないのだ。

病人を抱えている人に、
そんな浮世の義理を強いるのは、
残酷というものではないか。

しかし奥さん、
(旦那さんのこともあるし、息子さん、娘さん、
兄弟であることもあろう。
親御さんであることもあろう)

にしてみれば、
愛想よい態度で、
見舞客に謝意を表明しなければならぬ。

心身疲労している看護の人に対して、
実に気の毒なことであると思わないではいられない。

私は、病室に見舞客の入ってくるのを認めた時の、
奥さんのいたいたしいお愛想に、まず、

(申し訳ない・・・ごめんなさい)

という気になってしまう。

ついでご本人に会う。

これがまた、
来るまでは心から見舞いたくて来たのであるが、
顔を見ると、

(来なければよかった)

と思って、うなだれてしまう。

病人は病人くさい顔になって、
目ばかり動かしている。

往々、その目の色には、

(こういうとこ、あまり見られたくないんだよ、なあ・・・)

というのがある。

私も病人くさい友人は見たくなかった、
という気がある。

そこへ奥さんがお茶を淹れたり、
果物をむいたりして、すすめて下さる。

これは困るものである。

病人の枕元で飲むのも、食べるのも、
何やら健康を誇示するようではばかられる。

慰めの挨拶、
というのが口下手な私にはまたむつかしい。

「思ったよりお顔色もよく・・・」

というと、
よっぽど具合悪いと思うて来たんやろか、
と病人に思われるかもしれぬ。

「早く元気になって下さい」

などというと、
追い立てられるように思って、
病人はかえって落ち込むかもしれぬ。

「まあいい折ですから、
休暇だと思って、ゆっくり養生して・・・」

などというと、
これが人によっては逆効果で、

「そうもしとられまへんのや」

と焦らせたりするかもしれない。

そこはかとなき世間話をして退散、
というのがいいが、
これも持って生まれた身の徳によって出来る人はいいが、
出来ない人もある。






          


(次回へ)

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