むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、私の愛するカンボジア ②

2022年07月23日 09時02分19秒 | 田辺聖子・エッセー集










・思いもかけぬ戦乱の勃発、
(いや政治次元では、それはまさしく起るべくして起った事件、
必然的な趨勢、というのであろうけど、政治に疎い私は、
突然のように受け取られた)

それに続く、世界中が震撼した「赤いクメール」、
ポル・ポト政権の残虐な大粛清、
(ポル・ポト体制下四年間のカンボジア人の犠牲者は、
百万人から三百万人といわれ、
正確な数はいまだにつかめないそうである)

人口が七百万人たらずのカンボジアで、
この人数が殺され、
これが同国人の手で殺害された、
という点でなお慄然とさせられるのである。

あの温和な、もの静かな、人のいい、控え目な、
仏教徒らしいやさしさを持つカンボジア人の血が狂って、
ありとあらゆる残酷さを発揮したというのは、
私には、どうしても信じられないことだった。

カンボジアに何が起ったのか?
あの控え目な人々に悪魔でも乗り移ったのだろうか?

アンコールワットの密林にひそむ古代の悪魔・阿修羅が、
二十世紀になって忽然と出現したとでもいうのだろうか?

カンボジアは全土荒廃した。
アンコールワットも一部破壊された。

カンボジアの元外交官と結婚した日本女性、内藤泰子さんが、
家族すべてを失い、苦難の末、救出されたことも、
報道された。

ベトナム戦争、ボートピープル、
カンボジアの桃源郷はいよいよ遠くなってゆく。

ヘン・サムリン政権下のカンボジアは、
どうなっているのだろうか。

国際情勢や政治に不熱心な私が、
唯一関心を持つのがカンボジアだった。

「地上最後の楽園」が、
インドシナ半島の中で、もっとも酸鼻な地獄を現出した、
ということは、私の乏しい人生体験の中で、
大きな衝撃になった。

内藤泰子さんは奇蹟の生還を果たされて、
「カンボジア わが愛  生と死の1500日」
(日本放送出版協会)という本を出されたが、
まさしく私にとってもカンボジアは、
わが愛と呼べるものだった。

カンボジアに友人の一人もいるではなく、
住んだこともないのに、
なぜこれだけ惹きつけられるのだろう。

私は1964年(昭和39年)の暮れに、
カンボジアを訪れている。

その年の一月、
芥川賞を受賞して一年間忙しかったので、
骨休めに友人と二人で東南アジアを旅したのだった。

まだ今ほどパック旅行は普及しておらず、
シンガポール、マニラ、バンコック、と、
各地で日本語の出来るガイドを雇ったが、
カンボジアでは英語専門の人しかいなかった。

日本人旅行者も当時はいず、
たまたま新婚旅行が一組いただけ。

この夫婦が英語が堪能だったので、
私たちを引きまわして下さったが、
当時のカンボジアはシアヌーク殿下の時代でまだ、
フランス植民地風の余韻があった。

町では英語よりフランス語のほうが幅を利かしていた。

あとで考えると、
1964年、65年のころは、
カンボジアが平和を保っていた最後のかがやきの年だった。

タイから入ると、
まず気候のよいのにおどろかされた。
日本の九月、十月頃の、
からりとした空気である。

肌を洗われるような清爽な風だった。

プノンペンの町はトンレサップ川とメコン川に面している。
フランス人が作った町らしく垢ぬけて木々が多い。

バンコックの喧騒がうそのように静謐な国である。
茶色の川水は豊かにゆるやかで、
その上に、青い乾季の空が広がる。

カンボジアは空の美しい国だと思った。

王宮はあまたの柱と黄金色の屋根で出来て、
屋根の妻には、カンボジアの踊り子が、
反らせる爪のような飾りがつき、
メコン川に面した黄金色の王宮の門には、
聖なる「半人半鷲」の彫刻がある。

その日、王宮前ではシアヌーク殿下が、
何かのセレモニーを催していたらしく、
兵隊だらけだった。

物音はひびいて来ない。
カンボジアの国そのものがそうなのだが、
プノンペン自体、静かな静かな町なのである。

ただその兵隊たちといい、
プノンペンの町のあちこちで掲げられる国旗といい、
(それは、真ん中にアンコールワットの殿堂が描かれている)
いかにも新興独立国らしい、
昂揚した気分も感じられた。

隣国のベトナムもラオスも戦火つづきなのに、
1953年にフランスから完全独立をかちとったカンボジアは、
元首のシアヌーク殿下の手腕で、
左右勢力のあいだをたくみに綱渡りして、
独立国の威厳と平和を保っていた。

これもあとから思うと、
累卵の危うさといった威厳と平和だったのだが、
1964年、65年ごろの旅行者には、
そうは見えなかった。






          


(次回へ)

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