むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

6、血と水 ④

2022年07月09日 08時56分50秒 | 田辺聖子・エッセー集










・さきに「大きい兄ちゃん」「大きい姉ちゃん」の存在が、
家庭や兄弟にどれだけ深いやすらぎやよろこびを、
与えるかということを私は書いたが、
この血のつながりが、どこかで一拍ずれると、
とてもやりきれないものになってしまう。

ことに妹たちが「兄ちゃん自慢」であったりすると、
まだ結婚していない、あるいはする意志はあるのだが、
機会を逸して、むなしく年を重ねているといったような、
そういう妹たちの「兄ちゃん」にかける思いは、
おどろおどろしい血の粘りになり、
もしそれ「兄ちゃん」にお嫁さんでも来ると、
もうどうしようもないことになってしまう。

さらにこの一家一族が挙げて、
「兄ちゃん」のために尽くしてきたとする、
いやそういう事例を私は二件ばかり知っているのだが、
さして裕福でもない家族、
その長男が出来がいいばかりに、
一家を挙げて後援することになった。

「兄ちゃん」の学資のために、
両親も妹たちもきりつめた生活をした。

「兄ちゃん」はおかげで評判の高い大学へ入り、
いい職業につき、妹たちはそれが自慢であった。

彼女たちは、
自分たちが「兄ちゃん」をここまでしたのだと、
自負していた。

「兄ちゃん」は、一家の希望の星であり、
輝かしいプリンスであった。

その「兄ちゃん」が結婚する。

「兄ちゃん」のことを何も知らず、
何も尽くさなかった人が横合いから出て来て、
「私たちの兄ちゃん」を奪ってしまう。

「兄ちゃん」とお嫁さんは二人だけで住んで幸せである。

しかし両親も妹たちもヌケガラみたいになってしまい、
上の妹などは「あたしは兄ちゃんの犠牲になった」
というようになった。

私はかねて、
(一家の希望の星、というのは、あかんなあ)
とつくづく思うものだ。

その子、その人に血の汚さが集中してしまうからだ。

家族というものは、
一人がぬきんでるのではなくて、
屑星がいっぱいあって、
みんなキラキラしているのがよい。

そしてまた分裂して血を薄め、
あたらしい血を入れては薄め、
しているのがよい。

仲のよすぎる親子家族、
というのも見ていていやらしい。

まだ独立できない幼いうちはともかく、
みないい年になっているのに、ひしと固まって、
結婚話がきてもその団らんをこわされるのをおそれ、

「あれもいや」

「これももひとつ」

などと家族でいってる図、というのも・・・
それは好き好きのライフスタイルであろうけれども、
私には「血の悪臭」がにおう。

それが娘でもため息の出るようなものであるが、
息子ならなおさらである。

そういうところへお嫁さんになっていった女は、
どんな気がするであろうか。

あまりに一家が仲良くしていると、
割って入る隙がなく、彼女は「血の悪臭」に、
卒倒しそうな思いをするかもしれない。

もちろん、一家が仲良くむつみあうのは、
すばらしいことである。

しかし、血の汚さを知り、
血のこだわりを捨ててなおかつ、むつみあう習性は、
なかなか日本ではむつかしい。

アメリカでは、
白人の夫婦が黒人の子供を養子にしたり、
育てたりしている。

あのさりげない養子縁組、
血にこだわらず、何人かの子供を育てあげる、
あのさわやかな心情風土は、
ついに日本では根付かぬものであろうか?

それからして、
自分の子供さえ無事に育ってくれればいい、
という怖ろしく汚い血の思想が生まれるのではなかろうか。

最近の進んだ生命科学の考え方によれば、
障害をもつ子供とわかったら産まない方がいい、
悪性の遺伝病を持つ子供を作るのは、
慎んだ方が人間の尊厳にふさわしい、
というものだそうである。

この論旨は、
ユダヤ人を抹殺したナチの理念とそっくりではないか。

これをいう人は、自分の子供、
ならびにわが家族の血は清しと手放しで、
自慢していることである。

こういう考え方こそ「血の汚さ」を、
示してあまりあるものといえよう。






          


(了)

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