・さきに「大きい兄ちゃん」「大きい姉ちゃん」の存在が、
家庭や兄弟にどれだけ深いやすらぎやよろこびを、
与えるかということを私は書いたが、
この血のつながりが、どこかで一拍ずれると、
とてもやりきれないものになってしまう。
ことに妹たちが「兄ちゃん自慢」であったりすると、
まだ結婚していない、あるいはする意志はあるのだが、
機会を逸して、むなしく年を重ねているといったような、
そういう妹たちの「兄ちゃん」にかける思いは、
おどろおどろしい血の粘りになり、
もしそれ「兄ちゃん」にお嫁さんでも来ると、
もうどうしようもないことになってしまう。
さらにこの一家一族が挙げて、
「兄ちゃん」のために尽くしてきたとする、
いやそういう事例を私は二件ばかり知っているのだが、
さして裕福でもない家族、
その長男が出来がいいばかりに、
一家を挙げて後援することになった。
「兄ちゃん」の学資のために、
両親も妹たちもきりつめた生活をした。
「兄ちゃん」はおかげで評判の高い大学へ入り、
いい職業につき、妹たちはそれが自慢であった。
彼女たちは、
自分たちが「兄ちゃん」をここまでしたのだと、
自負していた。
「兄ちゃん」は、一家の希望の星であり、
輝かしいプリンスであった。
その「兄ちゃん」が結婚する。
「兄ちゃん」のことを何も知らず、
何も尽くさなかった人が横合いから出て来て、
「私たちの兄ちゃん」を奪ってしまう。
「兄ちゃん」とお嫁さんは二人だけで住んで幸せである。
しかし両親も妹たちもヌケガラみたいになってしまい、
上の妹などは「あたしは兄ちゃんの犠牲になった」
というようになった。
私はかねて、
(一家の希望の星、というのは、あかんなあ)
とつくづく思うものだ。
その子、その人に血の汚さが集中してしまうからだ。
家族というものは、
一人がぬきんでるのではなくて、
屑星がいっぱいあって、
みんなキラキラしているのがよい。
そしてまた分裂して血を薄め、
あたらしい血を入れては薄め、
しているのがよい。
仲のよすぎる親子家族、
というのも見ていていやらしい。
まだ独立できない幼いうちはともかく、
みないい年になっているのに、ひしと固まって、
結婚話がきてもその団らんをこわされるのをおそれ、
「あれもいや」
「これももひとつ」
などと家族でいってる図、というのも・・・
それは好き好きのライフスタイルであろうけれども、
私には「血の悪臭」がにおう。
それが娘でもため息の出るようなものであるが、
息子ならなおさらである。
そういうところへお嫁さんになっていった女は、
どんな気がするであろうか。
あまりに一家が仲良くしていると、
割って入る隙がなく、彼女は「血の悪臭」に、
卒倒しそうな思いをするかもしれない。
もちろん、一家が仲良くむつみあうのは、
すばらしいことである。
しかし、血の汚さを知り、
血のこだわりを捨ててなおかつ、むつみあう習性は、
なかなか日本ではむつかしい。
アメリカでは、
白人の夫婦が黒人の子供を養子にしたり、
育てたりしている。
あのさりげない養子縁組、
血にこだわらず、何人かの子供を育てあげる、
あのさわやかな心情風土は、
ついに日本では根付かぬものであろうか?
それからして、
自分の子供さえ無事に育ってくれればいい、
という怖ろしく汚い血の思想が生まれるのではなかろうか。
最近の進んだ生命科学の考え方によれば、
障害をもつ子供とわかったら産まない方がいい、
悪性の遺伝病を持つ子供を作るのは、
慎んだ方が人間の尊厳にふさわしい、
というものだそうである。
この論旨は、
ユダヤ人を抹殺したナチの理念とそっくりではないか。
これをいう人は、自分の子供、
ならびにわが家族の血は清しと手放しで、
自慢していることである。
こういう考え方こそ「血の汚さ」を、
示してあまりあるものといえよう。
(了)