むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

6、血と水 ③

2022年07月08日 08時41分14秒 | 田辺聖子・エッセー集










・姑と嫁が、夫をはさんでたたかうという、
血が水より薄くなることを認めたくない人は、
息子が嫁の方へ去ってしまったとき、
救いのない心地になってしまう。

血というものは、
中国残留孤児のように、
何千里もはなれ、何十年もへだてて、なお、
相よぶ粘稠度のたかいものであるが、
またいちめん、さらさらと水のように、
薄く流れてしまうときもあるのだ。

私の年齢からみると、
今日の姑さえ、ずっとずっと若くなってしまい、
結婚式などへ招かれて驚くことがある。

まだ若く、つややかな夫人が、

「息子に嫁がきました。
いい姑になろうと、私、たのしみにしています」

などと顔を輝かせていわれると、
私などどっち向いていていいものやら、
わからない。

「息子が、嫁が」

というのをやめたらどうだろうと思うのだが、
しかしそう簡単にいかないところが、
血というものであろう。

そしてまた血は、
他人にはそういえるが、
自分のことではいっこう思い切れないというところに、
特徴があつようである。

嫁と姑がいさかって、
姑は息子に向い、

「オマエ、嫁と私のどっちのいうことを信じるの?」

などといっているのはもう、
修羅場を通り越して地獄である。

たまたま、息子が嫁を叱ったりすると、
姑は嬉しさで笑みまけて、
にんまり笑ったりして、
あれもいかがなものであろう。

(止せばいいのに・・・)

という外野席のつぶやきも、
かき消されるばかり、
姑はギンギンになって血のつながりにしがみつき、
息子と一心同体になっている。

なかんずく、血の汚さを思い知らされるのは、
孫に対する姑の態度である。

嫁は嫌いだが、
孫は自分の血を引いているというので、

「ハイ、孫は可愛いんでございますよ」

という人がある。

これも血の汚さにほかならない。

「それが自然の人情というものではないでしょうか、
汚い、きれいという前に、
人間というものはそういうものなんでしょうから」

といわれる方もあるだろう。

しかし、いつまでも、
「血は水より濃い」と信じているうちに、
自分一人、取り残されてゆく、
ということもある。

ゆがんだ形のまま執着してしがみついていると、
そのゆがみが自分だけではなく、
周囲をも不幸にし、そうすると、
血の粘りはどんどん腐臭をたてはじめ、
世界の調和は崩れてゆく。

それゆえ、血によってつながれ、
出来上がった家族は、やがてそれを薄めつつ、
他人をもその中にとりこんでゆく。

親和力を少しずつ他人に押し広げ、
やがて親子兄弟の仲も、弾力ある血縁とする。

そういうたたずまいが、
私には好もしいように思われる。

兄弟の仲はましてなおさらである。

「兄弟は他人のはじまり」

ということわざを持ちだすまでもない。

兄弟姉妹がそれぞれ結婚すれば細胞分裂して、
自然に血は薄れ、間柄に弾力性が出てくるものであるが、
ときに、いつまでも血の粘りに拘泥している人があり、
これは親子の場合と違って困ったものである。






          

(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 6、血と水 ② | トップ | 6、血と水 ④ »
最新の画像もっと見る

田辺聖子・エッセー集」カテゴリの最新記事