・姑と嫁が、夫をはさんでたたかうという、
血が水より薄くなることを認めたくない人は、
息子が嫁の方へ去ってしまったとき、
救いのない心地になってしまう。
血というものは、
中国残留孤児のように、
何千里もはなれ、何十年もへだてて、なお、
相よぶ粘稠度のたかいものであるが、
またいちめん、さらさらと水のように、
薄く流れてしまうときもあるのだ。
私の年齢からみると、
今日の姑さえ、ずっとずっと若くなってしまい、
結婚式などへ招かれて驚くことがある。
まだ若く、つややかな夫人が、
「息子に嫁がきました。
いい姑になろうと、私、たのしみにしています」
などと顔を輝かせていわれると、
私などどっち向いていていいものやら、
わからない。
「息子が、嫁が」
というのをやめたらどうだろうと思うのだが、
しかしそう簡単にいかないところが、
血というものであろう。
そしてまた血は、
他人にはそういえるが、
自分のことではいっこう思い切れないというところに、
特徴があつようである。
嫁と姑がいさかって、
姑は息子に向い、
「オマエ、嫁と私のどっちのいうことを信じるの?」
などといっているのはもう、
修羅場を通り越して地獄である。
たまたま、息子が嫁を叱ったりすると、
姑は嬉しさで笑みまけて、
にんまり笑ったりして、
あれもいかがなものであろう。
(止せばいいのに・・・)
という外野席のつぶやきも、
かき消されるばかり、
姑はギンギンになって血のつながりにしがみつき、
息子と一心同体になっている。
なかんずく、血の汚さを思い知らされるのは、
孫に対する姑の態度である。
嫁は嫌いだが、
孫は自分の血を引いているというので、
「ハイ、孫は可愛いんでございますよ」
という人がある。
これも血の汚さにほかならない。
「それが自然の人情というものではないでしょうか、
汚い、きれいという前に、
人間というものはそういうものなんでしょうから」
といわれる方もあるだろう。
しかし、いつまでも、
「血は水より濃い」と信じているうちに、
自分一人、取り残されてゆく、
ということもある。
ゆがんだ形のまま執着してしがみついていると、
そのゆがみが自分だけではなく、
周囲をも不幸にし、そうすると、
血の粘りはどんどん腐臭をたてはじめ、
世界の調和は崩れてゆく。
それゆえ、血によってつながれ、
出来上がった家族は、やがてそれを薄めつつ、
他人をもその中にとりこんでゆく。
親和力を少しずつ他人に押し広げ、
やがて親子兄弟の仲も、弾力ある血縁とする。
そういうたたずまいが、
私には好もしいように思われる。
兄弟の仲はましてなおさらである。
「兄弟は他人のはじまり」
ということわざを持ちだすまでもない。
兄弟姉妹がそれぞれ結婚すれば細胞分裂して、
自然に血は薄れ、間柄に弾力性が出てくるものであるが、
ときに、いつまでも血の粘りに拘泥している人があり、
これは親子の場合と違って困ったものである。
(次回へ)