・人をお見舞いする才能、というのがあると、
つくづく思わざるを得ない。
口下手な人、
深刻癖のある人、
雰囲気の重苦しい人、
事大主義の人、などは病人を見舞わないほうがよい。
何となくさわやかな、
さして口数も多くないのに明るい気分を漂わせ、
それでいて、さしでがましくない、
そういう人が、病人の見舞いに適している、
というべきであろう。
そういう才能も徳もない私は、
病人見舞いには不向きである。
ある時、
「もうダメかもしれないから、
いま行って会っておくように」
と私は身内の老人に指示され、
ある縁辺の老女を見舞いに行ったことがあった。
病室は、花、花、花、で、
何だかお棺の中みたいで、
生きながら葬られたという感じだった。
老女はもう意識もなく、口も利けない。
娘さんが、といっても、かなりの年輩であるが、
「あんたを見て笑てます」といい、
そういわれれば、
病人の口元にかすかな動きがある。
私は嬉しいとか悲しいかよりも、
ギョッとしてしまった。
生前のおもかげのまま別れたほうがよかった、
と後悔した。
病が進んで面代わりした病人と会うよりは、
元気なときのその人を思い出しているほうがいい、
とつくづく思った。
(いま会っておかないと、もう最後かもしれない)
と思う人もあろうが、
最後だからこそ、会わないでおこう、
と思う人もあっていい。
もうダメかもしれない・・・と厳粛にいわれると、
なぜか人は心せかされ、
会っておかないと人間ではないように思い、
人道見地から、あわてて見舞ったりするが、
あれは疑問である。
少なくとも、私はそうは思わない。
病人が「会いたい」と意思表示してくれれば、
喜んでいくが、そうでなければ、
どっちでもよい。
それより心の中で、深く深く、
その人のことを思っているのがよい。
さて、病人の身になって想像すると、
まず入院すると、早速、親兄弟とか身内が聞いて、
駆けつけてくれるであろう。
病人には、心強くも嬉しいことであるが、
想像するに、この身内というのは遠慮がないだけに、
入院した本人に、
ズケズケ思っていることを言いそうな気がする。
「ふだんから不節制だからよ。
前々から、こんなことになるんじゃないか、
と思っていた。言わないこっちゃない」
「飲み過ぎたのよ、大体。
飲み過ぎって、お医者さんに言われなかった?」
などとかしましい。
病人は、よけい病状が悪化しそうなのをこらえ、
みなが帰るときには鎌首もたげて、
「ありがとう」
といわされる。
これを手始めに、さまざまの見舞客が来る。
見舞客の中には、儀礼で来る人もいるから、
「〇〇さんはまだ来ていないの?
まあ、何をしてるんでしょ。
知らないはず、ないのに」
といったりする。
「いやもう、来て頂かなくてよい、
そうお伝えください」
病人は、しんからそう思っていうのであるが、
「そんなわけにいきませんわ。
××さんまで来ているのに、〇〇さんが来ないなんて」
ということになり、
〇〇さんに伝わる頃には、
病人が会いたがっているのに、
〇〇さんは来ない、という風になってしまう。
〇〇さんはあたふたと、
取るものも取りあえず、メロンなど持って、
「まあ、遅くなってごめんなさい。
いえ、それがねえ、
この間から息子の受験であたふたしてまして、
一段落したと思ったら主人と姑(はは)が風邪をひきまして、
それやこれでお見舞いが遅くなってしまって・・・」
と遅くなったことばかりいううちに、
病人も社交儀礼とて気力をふりしぼり、
「で、お坊ちゃんはいかがでございました?」
と問うであろう。
受験が一段落したというのは、
ひょっとするとその結果を聞いてほしいのかもしれぬ、
ふだんから気を遣うくせのある病人ならそう思う。
もし失敗したのなら、
「とりこみがありまして」といいつくろうであろうから、
すると果たして見舞客は、得たりとばかり、
「おかげさまで、どうやら△大へ入れまして」
と思わず洩れる会心の笑み、
病人は気息えんえんながら、
こういわねばならぬ。
「それは・・・まあ・・・おめでとうございます・・・」
そればかりではない、
悪くすると病人はそのあと、
偏差値がどうの、共通一次がどうの、
と門外漢には全く興味のない話を長々聞かされるかもしれぬ。
(次回へ)