・〇〇さんは帰るとき、ふと思い出した如く、
「そういえば※※さんはお見舞いにいらっしゃいました?」
と言い、
「いえ、あの、もう、それはどうぞ・・・」
と病人が懇願しているのに、
「え~っ!まだですか、
ご入院をご存じないのかしら、
私、お知らせしときます」
「いえ、それはいいですから、
お知らせくださいませんように」
「いいえ、あとで※※さんに恨まれては、
私、立つ瀬がありませんもの」
〇〇さんは満足気にいい、
帰るときには、病人はまた、
「どうもありがとうございました」
と言わされる。
やがて※※さんから電話がかかってくる。
意外に、お見舞い電話、というのが多い。
これも付き添いの人がいると、出てくれるが、
歩いてトイレへ行けるくらいの病人は、
看護婦さんにインターホンで、
「お電話です」と呼ばれたとき、
留守宅で変事でもあったかと、
ぼつぼつ歩いて、ナースステーションに礼をいい、
電話を取り上げることになる。
すると、
「あら、※※ですけど、いかがですか?」
からはじまって、
忙しくてお見舞いに行けないお詫び、
〇〇さんや××さんに遅れをとったいいわけ、
とりあえず電話でと思うまでの気持ちを、
縷々とのべたてる。
お見舞い電話というのは、
本来、してはならないものと思うのであるが、
付き添いの人が出たときは、
病人を出せ、という人もあっておかしい。
「お電話に出られないくらいですの?」
「いいえ、そうでもありませんが疲れますので」
「じゃあ、お声だけ、ちょっと」
なんて人もいる。
病人も付き添いも見舞客に疲れ果て、
看護婦さんに頼んで「面会謝絶」の札をかかげてもらう。
しかしこれがなお、
人々の見舞欲をそそることになり、
「お悪いらしいわ、
今日のうちにお見舞いしといたほうが」
などというウワサが飛んだりする。
また、あるタイプの人にかかると、
「面会謝絶」の札なんか眼中にない人もいる。
病人はあらかじめその人の性格が分かっていたりして、
「あの★★さんなら、
きっとズカズカ入ってくると思うから、
ドアのところで断ってね」
と付き添いの人に頼んだりする。
またナースステーションの看護婦さんに、
「〇〇号室の患者は面会謝絶ですのでお断りして下さいね」
なんて頼んでおく。
しかし、見舞欲旺盛な人は、
ナースステーションなんか見向きもせず、
わき目もふらず、〇〇号室めがけて突進する。
そして、付き添いの人が油断しているスキに、
サッと入ってくるのである。
あ、来た!と病人が思う間もなく、
「いやあ、お見舞いが遅れて」と第一声。
いっておくがこれは男性にも女性にもいる。
一方、病人の方は、
心身は病院宇宙のプログラムにやっと馴染んで、
それなりに暮らしているものを、
見舞客という別次元の人にかきまわされて、
その落差にまた変調をきたす、
これがいけない。
枕頭台には吸い飲みやおクスリ、
あるいはガーゼのハンカチとか、ティッシュぺーパーの箱、
お茶道具やふきんなど、あるかもしれない。
それらは病人臭い、見苦しきものである。
しかし病院は一種仙境であって、
病人はいうなら仙人である。
仙人は何があっても苦にならない。
そこへ俗界の風が吹き込んだとき、
俗人の心を取り戻し、
にわかに俗なる目で気づかいしてまわりを見まわす。
病人臭い感じを俗界の人に与えないかと、
それを恥じる心が萌したりする。
かつ同性同士ならいいが、
女性の病人は、容色衰えた自分を異性に見られたくない、
と思うかもしれない。
あれこれ想像すると、
病人のお見舞いというのは、
よほど人生的腕力がないと、
むつかしいことのように思う。
何にしても、儀礼的お見舞いはやめたほうがいい。
以前私は、友人が入院したと聞いて、
遠方なので、何心もなく花を贈った。
すると退院したからと、鄭重な礼状と共に、
「内祝い」ののしがついた品を送ってきたので、
大いに弱った。
社会的地位のあるその人は、
多分、かなりの見舞いを受けたに違いないのだ。
そのお返しに多忙なその人が、
心いため、手紙を書いたのかと思うと、
申し訳なさに私は髪をかきむしりたくなった。
何も見舞わないのが、ほんとのお見舞い、
とそのとき思ってしまった。
こんなことを思うのは、
私がこの世に一匹狼として生きているからで、
子供も居らず組織にも入っていないせいかもしれない。
子供の先生や会社の上司下僚への義理などない、
立場だからかもしれない。
(了)