「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

1、ローマ ⑩

2022年09月05日 08時27分43秒 | 田辺聖子・エッセー集










・ホトトギス氏にそそのかされて、
ボルゲーゼ公園を散歩したあと、
べネト通りを馬車に乗る。

あんがい、ガタビシと震動して乗り心地はよくないが、
高いところから町が見られて、
風は快く肌にあたり、
タクシーよりは気分がいい。

バルベリー二通りからコンドッティ通りへ出て、
有名店をのぞいたけれど、
イタリアはインフレだからゼロがいくつもついていて、
手が出にくい。

その上、有名店はみな店員が威張っていた。

私は大阪育ちなので、
態度に威厳のありすぎる商売人なんていやなのだ。

愛想のいいおじさんの店でハンドバッグを一つ買ったら、
おじさんはただひと言、
「トカゲ」という日本語を知っていた。

暑くなってきた。

おっちゃんはあちこち引き回されてうんざりした顔、
テルミ二駅へ行ってみると、
午前11時発のはずの列車が、
午後1時までまだ出ていない。

乗客は怒るでもなく、おとなしく待ち、
退屈なので窓に鈴なりになっている。

弁当を食べてる人もあった。

それで興味を持って駅弁を買ってみたら、
日本円で二百円くらいで、
パンに小さな赤ワインの瓶、
ハムと野菜サラダ、
骨付きの鶏のフライ、
ケーキのごときものが紙袋に入っている。

列車には乗らなかったが、
ここの駅からバチカン行きの二階バスが出ている。

乗り込んで二階の一ばん前の席へ坐ると、
つんのめりそうな高さ、
バスがカーブするときなど、
倒壊しそうな気持になるが、
町の建物の高さはよくわかる。

小さい私が町の谷底をうろうろしていたって、
建物の巨大さはわからないはずである。

夜はローマではじめて魚料理の店。

タベルナというのは、
魚介類を食べさせるところらしいけれど、
ガリバルジー橋の近く、「トリルッサ」と読むのかなあ。

ここも子供連れの客でいっぱい。

うしろは中年のカップル、
隣は友人同士らしい夫婦者二組四人、
その中へ、宝くじ売り、花売り、歌うたいが入ってくる。

ここの歌うたいは中年のおっさん、
しかも声はかすれて出ない。

「中々、哀切でええ味やないですか」

とおっちゃんは、ひとごとのようでなく見ていた。

おっさん歌手は「オーソレミオ」と「サンタルチア」を、
例のごとく歌い、自分でギターを弾く。

「定年退職して、やってるのかもしれまへんな。
日本のサラリーマンも、こんな流しくらいできるやろ」

とおっちゃんは考えぶかくいい、
ホトトギス氏は気の毒そうに、

「しかし、日本の中年はギターが弾けないでしょう」

おっちゃん聞こえないふりして黙っている。

ご指摘通り。おっちゃんは、戦中派大正二ケタ、
鳴り物はすべてダメな人間である。

さて、今夜食べたのはムール貝とイカ、
それに魚のスープ、
舌ビラメ、
ムール貝の生にレモンを絞って食べたのが印象に残った程度で、
イタリア料理はレモンをふんだんに使うんだなあ、
と思ったくらい。

隣の席の婆さんが「サンタルチア」の歌に合わせて、
体をゆすっているのが面白かった。

魚はやっぱりヴェニスが美味しい。






          

(了)

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