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・十日ばかりして帰京され、愛人のお邸へ戻られる。
にこにこされつつ、
「どうだった、この間の海からの家づと(みやげ)は。
お気に入ったかね。ちょっと風流だったろう?
今もちゃんとあるかい?」
「何のこと?何か頂いたの?」
「はてね、面白い蛤にね、
海松がとりついてふさふさと繁っていたんだよ、
海の風景を思わせる眺めだったから、
見せて喜ばせてあげたくなって、
こちらへ届けさせたはずだが」
「いいえ、頂いていないわ。
誰にお持たせになったの?
蛤と海松ですって?
難波から持って来たなら新鮮だったろうに惜しいことをしたわ。
蛤はお汁にするより焼くにかぎるわね。
海松はお酢のものにちょうどよかったのに」
「いや、食べさせようと思ったのではないんだがなあ・・・」
殿は急ぎ召し使いの少年を呼ばれ、
「このあいだのもの、どこへ持っていったんだ」
とお聞きになると、こうこうと答える。
殿は行き違いに気付かれて、大いにお怒り。
「ばかな奴め、さっさと取り返してこい、すぐもらってこい」
召し使いの少年はあわてふためいて北の方のもとへ、
事情を話して詫びて、さきのおみやげをお返し下さいと嘆願する。
~~~
・(やっぱりね・・・そうだったのね・・・)
北の方は水に活けておいたそれを取り出し、
陸奥紙に包んで返された。
やがて殿の前に運ばれた蛤と海松は、
もたらされた時のまま、美しく青々と、みずみずとして、
(おお、損なわれずにそのまま大切にしておいてくれたか)
殿はゆかしく思われたが、
ふと陸奥紙に歌が書きつけてあるのを発見。
<海のつと思はぬかたにありければ みるかひもなく返しつるかな>
(海からのお土産物、届け先が違っていたのですってね。
たのしみに見ていた甲斐もなく、お返しすることになりました)
みるかひもなく返しつるかな、
海松も貝もちゃんと詠みこまれながら、
しみじみとあわれに悲しく、それでいて怨みや皮肉はない。
殿はこれを見られて胸せまり、
お顔をしばらく上げられなんだ。
ご自分が興あるものと思われたように、
北の方もやはり、趣あるものよと、
あの土産物を尊ばれた。
それにくらべ、新鮮な蛤は焼くにかぎるの、
海松は酢のものに、という若い愛人の興ざめた心ない言葉。
殿はそのまま、蛤と海松を抱えられて北の方のお邸へ。
~~~
・そしてその後もずうっと北の方と、
生涯むつまじく添い遂げられたというよ。
北の方と、その時どんなお話をされたのだろうって?
海松や風雅を共に解されるお二人のことだもの、
言葉など要りゃしない。
「海松も貝も、こちらの水が適いそうだよ。
風流も見せ甲斐があってのものだね」
と微笑み合われたのではないかな。
召し使いの少年が間違って届けたのが、
かえってお二人の心を結びつけることになった。
何が幸いするか、わかりゃしないねえ。
ただ・・・その少年が、わざと間違えて届けたとしたら・・・
その少年は知っていた。
愛人のほうは、蛤と海松を見るや否や、
ぱくりと食べてしまう女性だってね。
北の方は、水に活けて海の匂いをいつくしみ、
ひいてはそれを自分に届けてきた贈り手の心をいとおしむ、
女性だということも。
少年はそう思って、
間違えたふりをして届けたのかもしれないなあ。
え?
その少年というのは、わしのことだというのか?
ちがうよ。これは昔聞いた話さ。
男も女も、風雅の心こそ、あらまほしいものだねえ・・・
昼たけて磯の匂いはますますしるく、
潮騒は眠気をさそうような、のどかな春の海辺。
男は、潮干の浜から掘り出した蛤を指さし、
「それはそれ、これはこれとして、
焼いて食べようではないか、うまそうだよ」
うらうらとした空に若い笑い声があがる。
巻三十(十一)
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(了)