・仕事のために別居結婚している女性が、
子供を持とうとすれば、別居を解消するか、
あるいは母となる権利を放てきするか、
そのどちらかにしか道はないのだろうか。
私は一般論として、一つある、と思う。
それは、別居という変則的な結婚形態の、
根源的な意味に関係してくることであるが、
「家庭」というものの概念を変えることである。
子供はどちらについてもよいが、
生活技術的には、多分、母親に従属するだろう。
保育所なり、専従者を雇うことで、
あるいは日曜パパの手助けを借りることで育てていると、
子供は案外、簡単に父と母が同居していない状態に、
なれて成長してゆくかもしれない。
両親の家を往来しつつ育つかもしれない。
現に、大多数の家庭が「日曜親子」で、
ふだんはバラバラ、
父親の顔も見ないという子供たちが多いことを思うと、
変則的でもない。
別居結婚をして子供を持つのは、
条件を困難にするが、
やって出来ぬことはない。
しかし、さきにいったように、
一つ家に父と母がいて父は働き母は家を守る、
というマイホームの概念では、
とても子供を持つことはおろか、
別居を続けることも無理だろう。
ボーボワール女史が子供を持たなかったのは、
著作という天職のためだと説明されているが、
私は彼女を子供嫌いだとか、
子供を欲しくなかったのだとは思えない。
彼女のように愛情あふれる、
人を愛する能力のある、
生命力に満ちた女性が、
愛する人の子供を欲しいと思わなかったとは、
信じられない。
おそらく彼女は、
どの女性にもまして子供好きであり、
子供への愛におぼれる人であるような気がする。
彼女ほどの才能ある女性が、
幾重にも屈折してうち出した、
子供を持たない、という結論の内容を、
私などが一知半解でうかがい知るわけはないが、
自分の経験から推して、何となく想像する。
女史は「家庭」の世俗的概念に毒されることを、
恐れたのではあるまいか。
普通の女性なら、
子供を持つことで男性と対等の場に立てる、
よりどころを見つけるのに、
彼女の場合は、サルトルと同等に互角に渡り合うには、
子供はハンディキャップになるのではあるまいか。
サルトルとの間の、
精巧で巧緻な関係の均衡が微妙に乱れてくる、
それが聡明な彼女は洞察していたに違いなく、
純粋で尖鋭的なサルトルとの関係を煮えつまらせると、
子供は全く余計なものの存在になってくるのだろう。
私自身が子供好きだから、
そう想像されて仕方ないのである。
すばらしい歓びをもたらしてくれる子供は、
また、妥協や安逸や懶惰といった胞衣(えな)を、
引きずって現れるものであり、
それらをひっくるめて、
世俗的概念で丸めこまれた「家庭」は、
エゴイズムの極致だからである。
私は子供がないから、
他人の子供に興味を示すが、
それは私だけでなく、男も女もそんな人は多い。
ところが、自分の子供を持つ男や女は、
他人の子供を見るのに冷酷きわまる無関心を示す。
他人の子供は嫌いだという、
「子供好き」の男や女の方がノーマルなのかも知れないが、
私はかねてそれを面白く感じていたので、
自分の子供を持つ人に真の博愛主義者がいないのを思い合わせ、
母になるのを放棄したボーボワール女史の気持ちを、
いろいろなぞらえるのである。
サルトルとボーボワールとの関係も、
一種の家庭には違いない。
その純粋さを守り育ててきたのは、
二人の知性と愛情であろう。
そして、その家庭は二人だけの概念の家庭であり、
二人の創作である。
女性が仕事をもち、別居結婚を試みるとき、
あるいは困難な状況のもとで、
子供を持ちたいと願望したとき、
もっとも大切なのは二人だけの概念による、
「家庭」を創作することである。
私の場合は、別居結婚がお互いを犯さず、
能率よく愉快だと思っていた矢先、
彼が病気になって暑いさなかを、
ひと月近く寝る羽目になった。
これは想定外のことだったので、
今さら別居の功罪を考えさせられた。
第一、多忙なときだったので、長く連絡せず、
「こんにちは。どう?久しぶりね」
と電話してみて、彼の不機嫌な声が、
うん、具合が悪いんだ、と返ってきたとき、
びっくりした。
(次回へ)