・「え?病気?
ちっとも知らなかったわ。
お見舞いもせず失礼しました」
彼が休んでいる、例の家へかけつけながら、
病気や失意のときにこそ家族が欲しいのに、
もしこれが大阪と九州という風に離れていたら困るなあ、
と私は思った。
いざという時にかけつけられる融通性、
機能性をもった自由がないと、
別居結婚とはいえない。
出張や転勤の外的事情ならともかく、
みずから選びとった別居なら、
物理的距離の問題も重要である。
いつでもかけつけ、
いつでもそこで、
「家庭」を作れるだけの柔軟さがないと、
家庭を固定した概念で考えていては、
別居できない。
われわれ二人が会うとき、
会う場所が家庭になる。
ふだんは無機質の家が、
私たちが行って暮らすと、
「家庭」という有機体にふくれあがり、
束の間の団らんになる。
あるいは彼の運転するボロ車の中が家庭であり、
子供たちと買い物に行く三十分が、
私と子供たちの家庭でもある。
さて、私は別居結婚の功罪やら、
それが成立する条件などを述べてきた。
経済的自立やら、
子供を持たぬこと、
仕事に便利なこと、
たとえ持っても、従来の世俗的な家庭の概念では、
子供を育て、自分も生かすことは出来ないこと・・・
それらは主に、女性の側から言ったのであるが、
私は男性がその成立の鍵を握っていると思う。
男性で、別居結婚に堪えられる人は少ないと思う。
その意味で「ボーボワール賞」というのは、
裏返しにすれば「サルトル賞」である。
たいていの男性は、
口では自由を欲するように言うけれども、
女性より意気地なしである。
彼らは、
女性が夫や子供に守られるよりはるかに強く、
妻や子によって世間の荒波から守られているのである。
家庭を防波堤にして、
社会的に精神、肉体的に自分は堤の穴に、
安全に身を隠すのである。
女性は自分の仕事を守るために、
家庭の概念を変えることも可能だが、
男性は仕事と家庭のイメージをどちらも変えられない、
不器用なわがままな存在である。
だが近ごろの若い男性だと、
少しずつ変わっていそうなので、
あんがい若いカップルが大胆に勇敢に、
新しい結婚の形式を試み、
幸福のさまざまな可能性を探ることも容易かもしれない。
ところで私たちはといえば、
はじめに、気負った決意からではなく、
なんとなくこういう形になった結婚なので、
またなんとなく同居するふつうの結婚の形に入るかもしれない。
ともかく、私は仕事、彼には子供というお荷物があるし、
自分の意見も生活様式も出来上がった中年者の結婚は、
お互いがよほど奸智に長けていないとつとまらない。
別居結婚も奸策の一つである。
それで、
「やっぱり同居のほうがいい」
と彼に言われたら、われわれの結婚テストは、
成功したのかもしれない。
しかし仕事を続けていく場では、
失敗かもしれない。
となると、喜ぶべきか、悲しむべきか、
やはり矛盾の多い形だ。
ともあれ、第一義的なことは、
私は彼を選んだということである。
彼が行ったり来たりのあわただしさに疲れて、
一軒の家に落ち着く同居結婚を望むようになったら、
私もそれに従おう。
その条件の中で、
いちばん私が仕事をしやすい方法を考えるし、
彼も要求したら協力してくれると思う。
やはり仕事を持つことと、
結婚するということは、
相反する要素を持つらしく、
すべての結婚はクーデターを伴うものなのだろう。
(了)