「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

9、花を楽しむ

2022年02月23日 08時53分26秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私は大阪の下町に育ったので、
庭で花を作って楽しむということがなかった。

四坪くらいの庭はあったが日当たりは悪く、
大阪の商家の習いで、花の咲く木は庭に植えないのである。

檜とか槙というような地味な木ばかり。
その手前に祖父手作りの棚があり、
縁日や夜店で祖父が買って来た盆栽が並べてあった。

祖父は気まぐれの多い人で、ある年、桜の木を買って植えた。
春になると狭い庭は花吹雪で埋まり、
庭は台所から見通しなので、酒屋の兄ちゃんが配達に来て、
「ええお花見でんなあ」と言った。

その頃、写真館をしていた私の家は、
技師見習い、女中衆を入れて二十何人の大家族で、
酒も醤油も樽を据えてあった。

私は少女時代、花のない家が悲しくて、
植木鉢を二階の物干しに並べ、
小づかいから球根を買って来て、
ヒヤシンスなどを咲かせていた。

日当たりがよいので、よく咲いて、
母にほめられ私は得意であった。

花は好きだけれど当時は今のように花屋も多くなく、
花も高かったから買えるものではなかった。

私の女学生時代の後半は、
戦争が烈しくなったので花どころではなくなり、
空き地があれば野菜を作った。

その頃の私は、少女小説から花の名を覚えた。
そして、美しい花にあこがれた。

それらに中には、名前通りに美しいものもあったが、
また名前ほどでもない花があって、がっかりしたのを覚えている。


~~~


・自然に縁のなかった私たち姉弟を両親は哀れんで、
夏は六甲山の貸別荘やキャンプに連れていってくれた。

親類と共同で借りた貸別荘の思い出は忘れがたい。

私は今も、山の匂い、木々の匂いに敏感で、
山気にふれるとうれしくて涙が出そうになる。

人間も自然の内に住む動物、という思いを強くする。

人間の身勝手で、この神聖な自然、
全地球の全動物の共有である自然を、
汚してしまっては申し訳ないのである。

子供のうちに、自然の中に投げ込んで暮らさせてやりたいと思う。
子供は水辺や野原、山の中へ放り出すと、
思い切りはしゃぐものだ。

星空や蝶を見て、
「怖い!」とおじけるような町の子がいると聞くが、
何というかわいそうなことになってしまったものか。

最近は花の種類も豊富で、美しく改良された品種も多いので、
花好きの私にはうれしい。


~~~


・花好きの私は、自分でポプリ作りをするようになった。
盛りの花びらを散らすのが惜しくて。

開ききってしまうまで咲かせてしまうので、
いっこうにコクのある匂いが出せない。

モクセイやクチナシ、沈丁花のいい香りを、
そのままとどめられたらどんなにいいだろう。

それぞれの花期を楽しんで年を重ねてきたが、
ポプリ作りを始めてから楽しみが多くなった。

キンモクセイの花をハンカチに包み、
持って帰って乾かすと、いい香りがとどまっている。

ガラス瓶に秋の香りを封じ込め、
時々開けて、秋の香りをかぐ。

美しい色をとどめて乾く、乾いた花びらが、
空き瓶の中に静かに眠る。

それに、香料、香草を混ぜ合わせ、
好もしい匂いに調えてゆく。

年々の四季は私の瓶の中に閉じ込められてゆく。






          




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