むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「21」 ⑤

2024年12月06日 08時53分20秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・庚申の夜、

「それではとっておきの物語を、
宮さまはじめ皆々の、
お耳に入れることにしよう」

伊周(これちか)の君は、
薄い冊子を取り寄せられる

「この物語、
ちょうど七月の頃の有明の、
情趣を描いていますのでね
書き手は誰か、
読み終わってから、
お当てください
偶然手に入りましたものを、
家の女どもに筆写させましたので」

私はふっと予感がした

伊周の君は、
私の方を向いて、
意味ありげに笑っていらっしゃる

それでもまさか、
私の手もとの箱に、
そっと秘めてある、
れいの『春はあけぼの草子』
の草稿が持ち出されているはずは、
ないと思っていた

あれは誰も知らないものだし、

(厳密にいえば、
もうずっと昔、
弁のおもとを介して、
中宮やそのご一家に、
ほんの一部、
下書きの下書き、
というようなものを、
お見せしたことがあった)

三条の私の家にいる、
古女房、左近にさえ、
触れさせていないものだから

「小弁、
読むがいい
ゆっくりと情感こめて、
読むんだよ」

と伊周の君はいわれ、
小弁の君は冊子を受け取って、

「七月のころだった
暑さが厳しいので、
邸のあちこちを開け放したまま、
夜を明かした・・・」

と読み出した

もう間違いがない

私の草稿である

どこから持ち出されたのかしら、
あるいは経房の君が、
三条の自邸に来られたとき、
私の冊子をひどく見たそうにされて、

「ちょっと見せて下さいよ、
ほんの少し」

とねだられたが、
私はさえぎって隠していた

そうした折に、
一部が落ち散るか、
経房の君がかすめ取られるかして、
廻り廻って伊周の君の、
手に入ったにちがいない

「七月の夜の満月は、
よいものだが、
まして有明のやるせなさといったら、
ない

女は衣をかずいて寝ている
男はすでに出ていったあとらしい
よく拭き込んだ、
つやつやした板敷の端近に、
新しい畳を一枚敷いて、
三尺の几帳が立てられてある

女は、
恋人を送り出したあとの、
朝寝を楽しんでいた
うちかずいている衣は薄紫、
その下に着ているものは、
丁子染めの単衣に、
紅の単袴、
それも腰紐が長々と、
衣の下から見えるのも、
解けたままだからで、
あろうか

髪はゆらゆらと打衣の外へ、
はみ出して波打っている
何と長い髪だろう
初秋の風のすずやかさに、
女は眠るでもなく、
覚めるのでもなく、
ゆうべの一夜の夢に、
まだ心も身もただよいながら、
うつらうつらしているらしい

男が、
有明の霧の中から現れた
霧にしめった狩衣も、
肩からすこし落ち、
寝乱れた鬢を烏帽子に押し込んで、
いかにも朝帰りの風情
狩衣の下は白い生絹で、
紅の衣が透けて見える
いかにも女のもとからの、
朝帰りというしどけないさま

おのずと男っぽさが、
あふれていて、
面白い姿なのだが、

(朝顔の露が落ちぬ間に、
後朝の文を書こう)

と気もせいてくる道

女の局の格子が、
上っているのに、
ふと視線が吸い寄せられる

思わず寄って、
御簾の端を少しばかり、
引きあげてのぞくと、
女が一人寝ているのだった

ここも相手が帰ったあとだな、
と思うのも男は面白くて、
それに、見やると、
枕もとには紫の扇が、
開かれたままになっているし、
陸奥紙の懐紙の紅色なのが、
几帳のもとに散り落ちている

男の微笑を誘うような、
物なつかしい、
人臭い雰囲気である

気配で女は、
衣の中から顔をあげる

男は微笑んで、
長押によりかかって、
坐っている

女は少し、
不快である

知っている仲ではあるが、
いま、こんな寝起きの顔で、
会いたくないのである

『ずいぶんお名残り尽きない、
朝寝ですね』

と男は、
簾のうちに体半分入れて、
からかう

『露が置くより先に、
帰ってしまうんですもの
少し拗ねていますの』

女はつんとしていう

男はそのさまに心うごく

今、相手の女と、
別れて来たばかりというのに、
そしてこの女も、
相手の男を帰したばかりというのに、
男はふと色めいた愉しい心弾みを、
おぼえている

女の枕もとの扇を取ろうと、
男は自分の扇でかき寄せる

女は一瞬、
どきっとして、
身を退くしぐさになる

『何ですか、
いやに警戒なさるんですね』

『当然ですわ、
そんな間近に・・・』

『いいじゃないですか、
お互い遠慮のない間柄だし、
お互い、昨夜のことは、
触れっこなし』

『なんのことを、
おっしゃっていますの?』

『まあまあ・・・』

などと言い合っている所を見ると、
この二人、
かつては恋人同士であったのでも、
あろうか、
そのうち明るくなって、
周囲に人声もたかくなり、
男は出てゆく

女の相手の男は、
早々に後朝の文を書いて、
露にぬれた萩の枝につけて、
よこしたが、
使いの男は、
寄り道した男が出てゆくまで、
さし出せないでいる

(こちらも早く書かねば)

と男はそれを横目に見つつ、

(ひょっとすると、
おれが出ていったあと、
あちらでもこうして、
別の男が立ち寄っているのかな?)

などと思うと、
微笑されるのである

男が物陰にたたずんでいる、
文を持ってきた使者の前を、
通り過ぎたとき、
使者の携えた後朝の文に、
たきしめた香が、
あざやかに匂い立った」

「いい物語だわ」

中宮がまっ先におっしゃる

「いま香の匂いが、
ただよったわ
有明の空にたちのぼる、
香の匂いが
少納言、
あなたでしょう
この感覚は
あなたは天才よ」

私をじっと見て、
いわれる

私は涙が出てきた

中宮にそんな風に、
おっしゃって頂けて、
もう死んでもいい






          


(了)

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