むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

54番、儀同三司母

2023年05月25日 08時53分40秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<わすれじの 行末までは かたければ
今日をかぎりの 命ともがな>


(お前のことは忘れない、
とあなたはおっしゃったわね
ほんとかしら
そのお言葉信じられるのかしら
行末のことはたのみがたいわ
それよりいっそ
今日のこの恋の幸福の絶頂で
死んでしまいたいわ)






・これは烈しい恋歌である。

『新古今集』巻十三に、
「中関白かよひそめ侍るころ」として、
この歌が出ている。

「かよひそめ侍りける」というのは、
昔は男が女のもとへ通ったからであった。

正式な結婚をしても男が女のもとへ通う形をとり、
子供ができても、女の親が養育する。

のちには同居するケースも多いが、
何にしても恋愛のはじめは、
男が人目を忍んで女のもとへ通う。

作者は学者、高階成忠(たかしななりただ)の娘、
貴子(きし)である。

当時、円融天皇の宮廷に仕えて、
高内侍(こうのないし)とよばれていた。

有名な才女だった。
高階という姓を取って、高内侍とよばれた。
身分が高いという意味ではない。

父ゆずりの学才で、
漢学の素養深い、インテリ女性であった。

それにのちに彼女が生んだ子供たちがみな、
美貌をうたわれているところをみると、
彼女自身も美しい人だったのだろう。

高内侍には、
円融天皇もお心を動かされたほどの才媛であった。

その彼女に言い寄ったのは、
藤原道隆という青年武官である。
まだ二十歳くらいの年だった。

彼の父は藤原兼家で、
この頃大納言という高官であり、
名門であるが、その兄弟としのぎを削って、
政権争奪に明け暮れている最中だった。

だから道隆の将来は分からない。
しかし道隆はすっかり彼女に惚れていた。

貴子もこのさっそうたる名門の御曹司を愛した。

「今日をかぎりの 命ともがな」
高らかな恋歌讃歌である。

兼家はついに、
あまたの政敵を倒し、一の人の位についた。

彼の長男である道隆の運もひらけ、
父の死後、あとを襲って、関白となった。

関白とは天皇を補佐し、
万機のまつりごとをする一の位である。

貴子はその夫人となり、
伊周(これちか)隆家らの息子、
定子、原子という娘たちを生んだ。

伊周、隆家らは若くしてどんどん昇進し、
娘の定子は一条天皇の中宮に、
その妹の原子は東宮妃として入内した。

一家は春の盛りのようだった。

道隆も、位、人臣をきわめたが、
貴子も女の栄華のきわまりを味わった。

その昔、道隆が<忘れないよ 愛してる>、
といったささやきは真実だった。

道隆は父ゆずりの好色家で、
愛人の数も多かったが、
貴子に対する愛と敬意は、
つねに失わなかった。

子女はみな貴子の血をひいて、
好学の才子であった。

定子中宮に仕えた清少納言は、
定子の美しさと才気を『枕草子』で讃えている。

世間の人々は、
今をときめく一の人の夫人が、
昔、宮中に仕えていたことをあてこすって、
おとしめたりした。

清少納言は『枕草子』の中で、

<女だって仕事を持って社会にたちまじるのは、
世間が広くなって生きがいがあっていい>

と弁護している。

しかし道隆一家の栄華は短かった。
大酒飲みだった道隆は、
四十三の若さで亡くなってしまう。

またもや同族の中で激しい政権争いがはじまる。

二十二の伊周は、
父の末弟である老練な叔父・道長の敵ではなく、
蹴落とされてしまう。

夫に死なれたあと尼になっていた貴子だが、
道心をおこすゆとりもない。

急激な一家の没落ぶりだった。
弟の隆家も流されていき、
中宮定子も悲しみのあまり落飾する。

貴子の不幸な晩年を指さして、
世間の人々は、

<賢すぎる女の末路はあんなものさ>

と嗤うのであった。

しかし、この凛然たる恋の情熱の歌は、
定家によって百人一首に入れられ、
不滅の命を与えられることになった。

定家は、
薄幸な末路の中関白家に同情した如くである。

「儀同三司(ぎどうさんし)」というのは、
後年復位した伊周が、太政、左、右、の、
三大臣に同じという意味から、
自分で名乗ったもの。





          


(次回へ)

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