・今の時代、(昭和50年代)
ほとんどの人が中流意識を持っているということだけど、
中流って何だろう?
どんなのを中流というのだろう?
私は中流だろうか?
私自身でもよくわからない。
その日暮らしというほどではないにしても、
現代日本の税制上、
資産は作れない仕組みになっている。
何よりこの、毎日、
締切に追われてイライラしているようでは、
これは時間貧乏というもので、
とても中流とは申せない。
私の思う中流は、
資産的にも人生的にも余裕のあるイメージだから、
それでいくと、私は下流もいいとこである。
私の考える中流のイメージは三つある。
その一つは恒産があること。
国民の資産が実質的に太っていかなければならない。
これが今の日本では、中々むつかしい状態。
何しろ世界に冠たる酷税ゆえ、
日本の庶民の家庭は大なり小なり、
綱渡りである。
がんじがらめのローン、
膨張する一方の教育費、
家庭生活はつねに波に洗われる砂の城のようである。
家族が無事息災でいるから何とか切り抜けています、
という家庭が多いにちがいない。
稼ぎ手や主婦が失職するとか、
倒れるとかすると、もう家庭崩壊の危機である。
それでも過去はそれなりに時代が質素だった。
しかし今は世の中が華美になっているから、
庶民の実質的な生活との落差が烈しい。
私たちは世の中の派手やかさに釣られて、
つい自分たちの生活も派手に錯覚してしまいがちであるが、
それは仮の虚像である。
われわれは時代にめくらましの術をかけられている。
虚像に酔っているようでは、中流とはいえない。
私など最も酔っているタイプの一つである。
東京、大阪をはじめ全国の主要都市には、
豪華な高層ビルが乱立し、物資はあふれ、
食べ物は氾濫し、交通は寸分の狂いもなく整備されて、
いかにも富める国、という印象。
われわれは、つい庶民も富んでいると錯覚を起こすが、
実際は、正直に生きている庶民は、
せわしいやりくりに追われている。
大企業富んで、社員貧し。
会社のビルは立派でも、
社員は狭い家をわがものにするのに、
ほとんど生涯を捧げ、遠路通勤してヘトヘトになる。
これも中流のイメージとはちがう気がする。
街は質素で素朴でも民衆一人一人が、
実質、がっちり資産をたくわえ、
少々のことではびくつかない経済的底力がある、
というようであらまほしい。
会社の見かけはともかく、
社員一人一人がゆとりある生活基盤を持っている、
というようであってほしい。
たいていの人がお金は入っただけ使う、
右から左へ流れ落ちてゆくだけ、
という生活状態では、ほんまに中流かいな、
と私は疑う。
日本庶民のお金の使い方も、
中流的ではないように思う。
お金の使い方が下手だから恒産ができない、
ということもある。
庶民は私を含めてお金に不自由しながら、
パッパと使うところがある。
街のうわべの華やかさに釣られ、
一万円の使いでがまことに少ない習慣を身につけてしまう。
これでは中流といえない。
中流というのは、一万円どころか、
千円の使いでがじっくりあるように使う階層である。
中流は世間の流行や風潮に流されない、
人と同調してよけいなものを買いこんだり、
買い替えたり、しない。
すぐに飽いたり、目移りしたり、しない。
持っているものを大切にする。
あるものに手を加えたり、修理したり、
リフォームして愛着する。
ペンキを塗り替え、クロスを張り替えて、
椅子を再生したりする。
一着の服を染め直し、
継ぎ足して新しいドレスに再生する。
編み物はほどき、傷んでいる部分をとりのぞいて、
別の古毛糸に足して新しいセーターに仕上げる。
そういうことを楽しんでやる。
貧しいからこんなことをして、
セコいやりくりをしているなんて、
と落ち込まないのが中流ニンゲン。
にんまりして、楽しみつつ、愛情を注いで、
いつまでもつきあう。
見栄を張らず、靴の修繕をしたり、服の手入れをする。
何年も服を新調しなくても、
くたびれた風に見せないのが中流ニンゲンである。
そうして財布の紐はかたい。
大いに渋いのである。
決してパッパにならない。
パッパと使うのは、
下流ニンゲンか上流ニンゲンである。
パッパでは中流ニンゲンになれない。
(次回へ)