・新しい料理も否むわけではないが、
古来から父祖の食べてきた料理は体にいいはずと信じる。
いまの子供は、
きんぴら牛蒡やわかめの煮いたものの美味しさを知らない。
味覚の開拓という点でも不幸だが、
健康にはよくないのではないかと心配である。
こういうものを挙げると、
若い人は「粗食やな」とおどろくかも知れないが、
上手に調理すると、とても美味しいものである。
私は無宗教者であるが、
父祖の恩と大地の恩、というようなものを考えることがあり、
それが生まれた土地でできたなりものを食べて生きる、
という思い込みにつながっている。
日本の土地を肥沃にして、
食糧自給率を高めるには、
民族の健康にもいいのではないかと思う。
その点でも、
米のとれる田を休耕田にして荒れさせるのは、
「お天道さんが怒らはれへんか」という気になる。
食べ物の次に、中年族として心すべきは、
「面白づかれ」ということであるが、
夫が、ゴルフは夢中になってしまうからいけない、
というように、私たちは何か興に惹かれると、
のめりこんでしまい、足を取られ、
「鹿を追う猟師、山を見ず」になってしまう。
私はスポーツはしないが、
旅行ではつい「面白疲れ」になる。
取材の興味や欲で、
思わずハードスケジュールになり、
その時は気分が昂揚しているから、
どんなにハードかわからない。
しかし体は正直なのでどんどん疲れが蓄積していき、
警報機は鳴りっぱなしということになる。
それをちっとも気づかない。
旅行から帰ってどっと疲労を発するということになる。
そんな状態を「面白づかれ」というのである。
それから体重の基準も個々まちまちであってしかるべきで、
持って生まれた性質や、生活歴にもよるし、
画一的な基準は一応の目安と心得るだけでよい。
スリムがよし、とは誰が言い初めけん。
世の中にはとりどりの美があるので、
ファッションがかくも多様化しているのに、
体型だけ画一的というのはおかしい。
さるファッション雑誌で読んだ話だが、
アメリカの高名な男性デザイナーで、
ハイ・ソサエティの婦人ばかりを顧客に持ってる人がいる。
この人はある富豪夫人に服を作って下さいといわれ、
「私の服が着たければ、もう数キロやせてきなさい」
と拒んだそうである。
何という無能無芸なデザイナーだろうと、
私はおかしかった。
彼の美意識の幅は狭くて、
ファッション感覚に弾力性のないことがうかがえる。
こんな硬化したセンスの持ち主では、
服のデザイナーたる資格はないのであって、
これはセンスというより、このデザイナーの、
技術の自信のなさかもしれない。
服というものはデザイン一つで体型の欠点を隠し、
長所を引き立てるものである。
それというのも、
見た目を重視して、無理な減量に心占められる、
ということが、中高年にあってはならない。
またストレス多い中高年が、食べたいものを控え、
飲みたいものを控えてまで減量することはない。
そんなことをすると、
たとえ減量に成功しても、
顔つきがどこか攻撃的になったり、
今度は減量に成功していない人を、
侮辱する表情になったりする。
そういうのは西も東も分からぬ若い者にさせておくとよい。
一分のスキもないおしゃれで身を飾っている人に対して、
落ち着かないのは、
そういう人がこちらをどんな批判的な目で見るかと、
ひるむからである。
中高年になって人をひるませたり、
おびえさせたり、コンプレックスを抱かせたりするのは、
よくない。
コンプレックスを抱くのもよくないが、
人に抱かせるようなことも、
中高年には似合わない。
どっちも健康によくない。
さらにつけ加えると、
私は医学は万能、と思ってはいけない、
とこの頃感じている。
薬石効なく・・・というけれど、
医学の及ばない分野のほうが、まだ大きい。
それ以上に人間の命ははかない気がする。
全く、ちょっと先はどうなるやらわからない。
ある時点から先は運任せ、というところがある。
それゆえ、運動のし過ぎもよくないが、
それと同時に自分を叱咤し過ぎるのもよくない。
まじめな人ほど自分を叱咤して奮い立つ。
人生にはみずから叱咤して、
奮い立たないといけないときがあるけど、
「力及ばず」と向上心を放棄したほうがいいときもある。
その見きわめをつけるのは難しいが、
そのあやういバランスが中高年以降のカギであるような気がする。
(了)