「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、蜻蛉日記  ①

2021年06月21日 08時08分36秒 | 「蜻蛉日記」田辺聖子訳









・作者、蜻蛉の夫の兼家と兄弟ですが、
安子中宮と村上天皇のお子、冷泉天皇は、
追われるように退位します。

次の円融天皇は他の皇子同様、安子中宮を母とするので、
兼家、兼通の甥にあたります。

父、師輔の代が全部亡くなり、
彼の子供たちが実権を握るようになります。

師輔は大変な子福者で男の子が十一人、女の子は六人、
夫人は何人もいます。

伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)の三人は、
安子中宮と同じ夫人腹から生まれた子供です。

師輔の兄弟が亡くなってからは、
長男の伊尹に政権が移ってこの方もしばらくして亡くなり、
そのご兼通に移ります。

ところが、兼通、兼家は犬猿の仲です。
四つ年下の兼家が兼通を通り越して出世してしまったのです。

そこで、兄の兼通は自分の妹の安子のところへ行き、
(関白の位は兄弟順にするように)と頼んだのです。

安子中宮は兄弟思いですから、
一筆書きまして兼通はそれを大事にしました。

安子中宮が亡くなり、次々と政界の実力者が死んでいきます。

「次は自分の番だ」
末弟の兼家は張り切っている時に、
兄、兼通は円融天皇のところへ行き、
兼通という人はどうも陰険で人に好かれないところがあり、
天皇にとっては叔父さんの一人ではありますが、
あまり親しんでいられなくて無視されようとされた。

兼通は追いすがって、
亡くなられた母上、安子中宮の書かれた一札をお見せしました。

母君のご遺言には違えられぬと天皇は思われて、
兼家に行くべき関白の位が急に兼通に行きます。

世の人々もたいそう驚き、兼家はがっかりして立腹し、
半年間は出仕もしないということになります。

そういう政界の一面が「蜻蛉日記」には出ております。
男たちの政争の場面を一応頭に入れておいて、
「蜻蛉日記」を読むとわかりやすいです。

蜻蛉はもちろん、
男の世界のいきさつは詳しく知りませんから、
失意の夫、兼家が家の中でごろごろしていますので、
(何だっていいわ。家にいてくれるのなら)
なんて書いております。


~~~


・兄、兼通はそんなわけで政界の実力者になります。

弟の兼家よりも出世が遅れて負けていましたので、
ここぞとばかり弟の権力を奪ってしまいます。
ありとあらゆる方法でいやがらせをします。

そのうち、兼通は病気になりまして、
今にも危ないという状態になりました。

その時、弟の兼家の行列がこちらへやって来ます。
(あんなに仲の悪かった弟だけど、見舞いに来てくれたのか)

兼通は喜んで門を開け待っていますと、
行列は家の門を通り過ぎて行きました。

どこへ行くのかと思えば、
(兄は危篤だからおれが関白の位を)
ということで宮中に行こうとするところでした。

兼通は怒り心頭に発して家人が止めるのもきかず参内しまして、
居並ぶ人々を尻目に、(最後の除目に参りました)
と申して自分の関白の位を従兄の頼忠に譲ってしまうのです。

更に兼家の官位を取り上げてしまい、
別の人に任じて家へ帰ってすぐ死にました。

兼通から関白を譲られた従兄というのは、
父、師輔の兄、実頼の子なんですが、
この実頼一家は地道で朴訥で篤実な人々で、
師輔一家とは家風が違います。

何といっても今の天皇の外戚ではないので、
少し遠慮がありましてやがては兼家は元に復して、
太政大臣になりました。

権力を握った兼家は先の安和の変で源高明を葬った。
とにかく兼家くらいやり方がえげつなく、
思い切ったことをした人間はいません。

平安時代は奈良時代と違って、
決して政敵を殺したり血を流したりということはありません。

それに近いことを完全にやってしまうということは、
大変あざといのです。

兼家のそういう才能を受け継いだのは、
三男の道長に多く流れているようです。






          


(次回へ)

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