・私は伊周(これちか)の君に、
「内覧宣旨」が下ったというので、
ほっと安心した
それならば、
父君の道隆関白が、
亡くなられるようなことが、
あっても自動的に伊周の君に、
関白の位は、
下りるのではあるまいか
ただ噂では、
伊周の君の叔父、
高階信順の君は、
「内覧宣旨」だけでは、
心もとなくて、
「宣旨」の文句を書き換えるように、
要求したということである
「関白の病の間」
という「間」の文字を、
「替」に代えてほしい、
と交渉したということだ
「間」では、
病気の間だけであるが、
「替」になると、
永久的に関白に替ることを、
意味する
しかしそれは、
主上のお許しが出なかったという
「どうしてお許しにならないの?」
私は経房の君にささやく
私にその極秘の噂を、
もたらしてくれるのは、
経房の君である
「主上は・・・
ここだけの話
悩んでおいでになるという話です
母君の詮子女院から、
強硬なお申し入れがあって・・・」
「母后がどうして?」
「伊周の君よりは、
道長の君を、
と推していられる
女院は伊周の君を、
よく思っていらっしゃらない
あんな若僧に、
と仰せられたのを、
耳にした者もいる
また中宮があまりにも、
主上に愛されているので、
女らしい反感を、
中宮の一族に抱いていられるとか」
「そんなことがあるのかしら?」
「あなたのほうこそ、
それは考えたことがないのか
中宮ほど愛されていなすったら、
母后がお妬にならない、
と思うか?」
「そこまで考えるなんて・・・」
「そこまで考えないと、
解けない謎がいっぱいある
主上はまだお若いけれど、
中宮への愛情は愛情、
天下の政治は政治と、
区別なさっていられる」
「では、
伊周の君が関白になれない、
ということもあるの?」
「もちろんですよ」
経房の君は、
何だか嬉々としている
男たちはひと波乱ありそうな、
という事態を迎えると、
昂奮するものらしい
おそらくこのひと月ばかり、
宮中のあちらこちらで、
男と男、あるいは男と女、
女と女たちのひそやかな、
密なる語らいが、
交わされているにちがいない
道隆公の亡くなられたのは、
四月十日である
道隆公は飲水病で、
これはお酒の飲み過ぎによることは、
あきらかである
四十三でいらした
道隆公のご逝去を、
恨む声よりも、
(次の関白はだれだ?)
という声で、
天下はみちみちた
中宮のご悲嘆は、
しめやかに深い
主上のお慰めも、
心こもるものらしく、
お二人は永の一日、
御張台でしみじみ語りあわれて、
倦まれなかった
私たちも鈍色の衣に着かえ、
中宮のいまの御殿、
藤壺は鈍色一色にさま変わりした
飲み友達の済時卿も、
関白さまのあとを追うこと、
半月ばかりのち亡くなられた
済時卿は東宮の女御、宣耀殿の、
父上で、まだ幼い若宮を、
残して亡くなられるのは、
お心残りであられたろうし、
宣耀殿の女御も、
これからというときに、
頼りになる父君と別れられて、
どんなに心細く思われたであろう
それでも宣耀殿の女御には、
すでに第一皇子がお生まれになって、
いらっしゃる
中宮・定子の宮には、
まだお子はお生まれになっていない
そういうときに、
父君を亡くされたのだから、
心細さは宣耀殿の女御以上では、
なかろうか
ただ、主上とのおん仲が、
むつまじく、こまやかな愛情で、
結ばれていらっしゃるとは、
いうものの・・・
帝・天皇といっても、
冷泉・花山の両院のように、
下々までひそかに取沙汰される、
欠点のある者、
常軌を逸した君、
足らぬ君、
臣下を心服させない君が、
いられるものだが、
当今はその点、
非のうちどころがなく、
姿かたち清らかに、
お心持ちも気高く情深く、
まだお若いながら、
人々の敬愛を一身に、
集めていらっしゃる
そういう主上が、
愛を傾けられる定子中宮こそ、
私の誇りでもあるのだった
主上と中宮こそ、
愛し愛されるにふさわしい、
たぐいない一対であった
後宮は喪の色に包まれた
中宮と東宮女御、
この後宮の女あるじ、
お二人ともほとんど同時に、
父君を亡くされたのである
しかし、
その夏の世の惑乱は、
いま猛威をふるっている、
疫病の恐れ以上に、
道隆関白亡きあとを、
誰が襲うか、
ということだった
(次回へ)