・「おーやおや、
サヨナラ勝ち、
二対一ですねえ」
と私はおちついていったが、
しぜんに頬はゆるんで、
ニヤニヤしてしまう
小林は巨人から初の白星だし、
中西監督もブレイザーのあとはじめて、
二塁の岡田を見るのもはじめて、
それに一点を争う試合で、
同点からのサヨナラ勝ちなんて、
こんな面白いのはめったにない
画面はめちゃめちゃに喜んでいる、
阪神ナインの大写し
中西監督がまん中になって一同、
団子になりもみくちゃの大騒ぎである
解説の鎌田さんや、
アナウンサーが何か言ってるが、
場内の歓声で聞き取れないくらい
阪神ファンはまだ熱狂していて、
旗をふり「六甲おろし」を歌い、
(・・・阿保かいな)
と私は思うが、
悪い気はしないのだから、
これがまた野球の楽しいところ
何べんも「六甲おろし」が歌われ、
旗が振られる
人々は立ちつくして、
帰ろうとしない
バンザイの声が夜空に、
何度もこだまする
バンザイをやってる男や子供たち、
自分でも(・・・阿保かいな)
と思っているのであろうけど、
バンザイをやるたび、
気持ちがスカッとクリーニングされるのでは、
あるまいか、
「天地生成会」や「現神様」よりも、
はっさい女たる私は、
「六甲おろし」を合唱していれば、
荒気は和むのだ
小林がインタビューされている
「やっと力いっぱい抛れました」
なんていっている
完投した小林は嬉しいに違いない
なかなか、可愛い男ぶりである
次男は画面の小林をねめつけ、
「何いうとんねん、
十本も打たれて」
といいビールをがぶりとあおぎ、
「力いっぱい抛って十本も打たれ、
ええかげんに抛ったら、
何本打たれるやら、
勝たしてもろたくせに、
えらそうにいうな!」
小林はにこにこして、
答えている
「これからよくなる一方だと、
思いますね」
次男はまたもやどなる
「何がようなるねん
よう勝利投手で出てくるな、
恥ずかしいと思え、
こんな試合、
内容的に巨人の勝ちや、
阪神の阿保、
三安打くらいで勝ちくさって、
喜びくさって
たかが三本のヒットで、
勝つなんて珍しわ
そんなんで勝ったかて、
これが巨人ファンやったら、
よう喜ばんわ
巨人ファンははじらい、
いうもん知っとるからな」
「何がはじらいや
勝負にはじらいもへったくれも、
ありませんよ
勝ち負けは白か黒か、
どっちかですよ」
私はお気に入りの小林をけなされて、
カッとなるのである
「気の毒やけど、
九十番もザマないね
何ですか、あれは
十安打で、へっ、たった一点、
えらい欲のないことや、
超浪費戦法いうたらこのことや、
高校野球やあるまいし、
そこへくると阪神は、
わずか三本のヒットで勝ってますねん
胸がスカッとするわ」
「ツイてるだけじゃ」
「ツキも実力のうちや」
「ラッキー勝ちや、いうたら!」
「技術がちがう、技術が」
「おばあちゃん、
負けてないな、
巨人はな、
実質で勝って試合で負けてるねん
実力は巨人の勝ちじゃ、
野球なんかようわかりもせんくせに、
何いうとんねん、
黙ってすっこんどれ」
この次男は言い募ると、
相手に口を開かせないくせのある、
男である
こういう男では、
会社でもすったもんだある度、
摩擦が起きるにちがいない
「あんたねえ、
そういう言い方はあかんよ、
人をボロクソにいうようでは、
人の上に立たれへんよ、
泣き泣きでもあんた、
『長』とつく身やろ、
ええ年してあたま禿げてまで、
いつまでもそう、
ミもフタもない言い方をしてたんでは、
人がついてきませんよ」
「うるさいわい!」
「ウチの常務が、
ウチの課長が、
いうて泣き言をいう前に、
自分のこと考えたほうがええ」
「ほんならいうけどな」
次男はテレビを消して、
私に向き直り、
「おばあちゃんかて、
可愛げないぜ
トシヨリいうもんは、
若いもんに、
ああ、いじらしい、と
ああ、気の毒や、と
ああ、哀れな、と
庇うて守ってやらんならん、
そういう気を起させるもんや
トシとったら、
若いもんのいうこと聞いて、
何でもハイハイいうとれ、
老いては子に従え、
いうやろ、
それをおばあちゃんは何じゃ、
こういえばああいい、
ああいえばこういうて負けへん、
こりゃ気ぃが強い、
なんてもんやない
気ぃが荒れとるんや、
婆の荒神や」
「女はそれくいらいで、
ちょうどええねん、
そやけど男は違いまっせ、
男は愛嬌や、
男は抛っといても気が荒れるから、
いつもニコニコしてなはれ」
「巨人負けてニコニコしてられるかっ!」
「ほんまに、
巨人が負けたらぶざまやな、
巨人いう名前からして、
負けるのが似合わん名前や」
「もうええわい、
ああ、気が悪い
帰るわ、ワシ
よけい気ぃ荒れてきた、
こんなトコにおったら」
そういいながら次男の顔は、
来たときのむっつりむくれた表情が、
拭ったように消えて、
何となく晴れ晴れしたように見える
次男はさんざん毒づいて、
帰っていった
息子にはああいったが、
本当は阪神というチームは、
勝つとファンとして、
居心地悪いという、
へんなチームなのである
阪神には「負け」がよく似合う
いつもここ一番というところで、
めためたと負けて、
ヒイキしていたファンは、
きりきりと胃のあたりが痛むという、
宿命を持っている
負けたら腹は立つが、
どことなくホッと安心し、
ワルクチをいって楽しめる、
というへんなところがある
しかしそれを巨人ファンにいわれると、
腹が立つのだ
(次回へ)
・明治時代は「ベースボール」、
といったそうで、
それは叔母が人力車に乗って、
古代紫の袴で女学校へ通ったころの、
名称だそうで叔母は、
清水谷高女第一期生というのを、
誇りにしている
いまでもあたまはしっかりし、
記憶力も抜群で昔の話も、
よく覚えていて、
「ワタエは、
ベースボールとピンポンが好きやった
こいさんのピンポンは強い、
と評判でおましてん
優勝してブリキの筆箱もろたり、
はっさい(おてんば)やよってに、
自転車にも乗ったり、
お母はんがうるそうなかったら、
女の飛行機乗りにでも、
なってたかもしれまへん」
というような人である
この叔母の母、
つまり私の母方の祖母もはっさいな女で、
十四で嫁入りするとき、
駕籠から大阪城が焼け落ちるのが、
見えた
これが慶応四年の一月のこと、
大阪城にいた徳川慶喜将軍が、
伏見鳥羽で敗れて、
大阪城を退くとき、
放った火であったという
祖母は白無垢の花嫁衣装で、
駕籠にゆられていたが、
難波橋からこれを見て、
「うわ、
大っけなトンドや、トンドや」
と手を叩いてはしゃいで、
「ちょっと、
駕籠おろしとくなはれ、
よう見さしとくなはれ!」
と叫んだというので、
「何ちゅうはっさいな花嫁御寮やろ」
と呆れられたという話である
はっさいな血は、
私にも流れているのかもしれない
私はテレビを見るにしろ、
じめじめしたドラマよりは、
スポーツ番組が好きである
そういえば、
はっさいな気性とともに、
長生きも受けついだのかもしれない
私の母は七十で死んだが、
一門の女性に、
「えらい早死にして・・・」
と惜しまれたものである
母ははっさいな女ではなかった
してみると、
長生きとはっさいはセットになって、
いるのかもしれない
せいぜい長生きすべく、
これからもはっさいを心がけなくては
夜、
食卓をテレビの前に据えて、
ナイターを見始めると、
次男がやってきた
「ま、いっしょにテレビ見よか、
思てな」
「別にここへ来んでも、
ウチで子供らと見たらええのに」
「来たらあかんのかいな」
「来たもんはしょうがない
上がんなさい」
次男が来ると、
なぜかケンカ口調になってしまう
この次男は豊中に、
相応以上の立派な邸宅を、
親の遺産とローンで建てたくせに、
私のマンションをうらやましがっている
そうして、
自分のうちに広い居間があるのに、
ウチへ来ると満足げに見回し、
「ここは居心地ええなあ」
と物欲しそうにいうのである
次男は何でも人のものが、
よく見えるという厄介な性質がある
そういう性質では長生きできない
「今日なあ・・・
ウチの常務いうたらなあ・・・」
はじまった
いつまでもそういうことを、
ぐちるようでは長生きできない
次男は、
自分で冷蔵庫のビールを取り出し、
私の皿をつつきつつ、
「ほんま、いやらしい奴やで・・・」
試合が始まっている
次男のグチどころではないのだ
試合はゼロ行進、
小林もよく投げているが、
巨人の新浦も憎らしいくらい、
見事である
私はラインバックがごひいきなので、
四回裏で、
「マイク、がんばれ」
といったとたん、
はじめての安打が出た
でも一塁走者の掛布は、
左ひざが悪いということだから、
ダメかもしれない
そう思ったら、
ややっ!淡口がトンネルした
大エラー、
タナボタのような一点が、
阪神に入った
「うわ、やったあ!」
と思わず声が出てしまう
これだから野球はやめられない
何が、
「ウチの常務いうたらなあ」
だ
何が、
「無意味ですわ」
だ
何が、
「ルールに必然的根拠がなくて、
納得できな」
だ
野球は理屈とちがう
何が起きるかわからないから、
そこが面白い
新浦が気のせいか、
がっくりきたような気がする
満員の甲子園球場が、
どよめいている
次男はテレビに視線を当てていたが、
ビールをがぶりと飲み、
テレビに怒鳴っている
「おい、そこでがんばれ、
何しとんねん、
中途半端すな」
「気の毒やけど、
今夜の巨人は冴えませんな」
と私はいってやる
巨人は再三チャンスを作っているのに、
どうしたのか攻めがまずい
ラインバックは六回表、
中畑の打球をジャンプして、
フェンスに激突しながらうまく捕った
「ようし、
ようやった、
ファインプレー」
と私は大喜びである
九回表で巨人はやっと一点、
「ようし見てろ、
阪神のアホを抑え込めえ!」
「お気の毒ね、
十安打しといてやっと一点とは」
「なにいうてんねん、
同点やないか
これからが勝負や」
「いままでに十安打しといて、
よう小林をノックアウトさせへんのやから、
あきませんな」
「何を、何を」
と次男はカッカとしている
球場全体が熱くなって、
割れんばかりの大歓声でいっぱい
私は次男に憎まれ口を叩いたが、
阪神もあまりほめられない
この回までずっと音無しの構えで、
小林が力投しているのが、
かわいそうなくらい
これが普通なら、
どんどん巨人が点を入れているところ
だが今夜の巨人はモタモタして、
攻めがまずいので、
それで救われている
九回の裏、
「いやー、
もうよう見んわ、
私ゃ」
といいながら、
私はドキドキしてみている
巨人は角に代わって、
急に古賀が登板していて、
めまぐるしいのだ
どっちもあたまに血がのぼってる感じ、
選手も目が血走り、
ベンチも焦っているにちがいない
先頭の若菜が四球、
掛布がヒットして、
佐野が七球目、
三遊間を抜いて安打、
若菜が二塁から生還して、
この嬉しさはこたえられない
(次回へ)
・息子自身に、
自覚はないかもしれないが、
そのさまは小学生のころ、
外から帰ってきて、
履物を脱ぎ散らかし、
息せききって、
(あのな、あのな、
お母チャン、今日学校でな・・・)
と報告した子供時代を、
思い出させる
なんでそういうことを、
自分の女房にいわぬのだ
遊び好きで物知らずの副社長と、
ツーツーである
「いやらし奴」の、
常務のワルクチを家へ帰って、
女房に聞いてもらうがよい
何も七十六のお袋をつかまえて、
「ウチの常務なあ、
こないだほんま腹立ったで」
などと訴えるには及ぶまい
普段、
やさしい言葉をかけるとか、
こちらの喜ぶような、
贈り物をするとか、
何一つ、
そういう可愛げはみせないくせに、
腹の立つような、
あるいは情けないこと、
うまくいかないことを、
しゃべるときだけ、
私のところへ来て、
ムーとした顔つきで、
「今日なあ・・・」
などというのだ
「そんなこと、
道子さんにいうたらどうやねん」
道子というのは、
次男の嫁で、
かの、私が悩まされる虚礼の大家、
おしゃべり婆の娘である
「あいつはあかんねん
いやな話聞きとうない、
いいよんねん」
当たり前だ
誰だって、
いやな話は聞きたくないのだ
「聞いてもどうしようもない、
いいよんねん」
その通り
私だって、
どうしようもないではないか、
人に向かって仕事の苦労話をするな
いいトシして
「そやけど、
いうたらちっとは気がまぎれるし、な
まあ、早よいうたら、
むしゃくしゃを入れる、
くずかごみたいなもんやな
聞いてもらえるだけでええねん
黙って聞いてえな」
「なんでこんなトシヨリに、
くずかご役をさせるのや」
こういうとき私は、
トシヨリを主張してやるのだ
そんなこんなで、
次男が来るといつも最後は、
ケンカであるが、
ケンカというのも、
時にはストレス解消になり、
かつ、親ごころというものであろうか、
こめかみが禿げあがった四十八の息子が、
泣き言、恨み言を並べるのを、
七十六の親が、
「ふーん」
と聞いてやるのである
この次男はまず電話で予約する
「あ、僕や」
などという
僕や、ではわからない
特に長男と次男は、
トシとって声が似てきた
「今晩、家にいてるか?」
というと次男だとわかる
「キヨアキか、
今晩はあかんで」
「あかん、
てどっか行くのんか、
おばあちゃんも、
よう夜に出歩くなあ
何しにどこへ行くねん、
何の用事があるねん」
次男の声は非難のひびきを帯びる
(親、トシヨリいうもんは、
子供のことだけ考えて暮らしとれ!
自分勝手な生活すな!)
というように聞かれる
また、
(こっちがわざわざ行く、
というときには喜んで迎えろ!
親、トシヨリのくせに、
子供を拒否するとはなまいきだ!)
というようにも聞かれる
あほらしい
子供の召使いではあるまいし
私はせせら笑いつつ、
「今晩はテレビのナイター見んならん
阪神巨人戦や、
邪魔せんといてや」
「何やて
ナイターやて」
次男の声にはありったけの不満が、
ふくれあがっている
それはまるで、
(野球のほうが子供より大事かっ!)
というように聞かれる
つまり次男が、
三人の息子の中で、
いちばんわがままで、
いまだに親に頼っているのである
長男も頼りないが、
これは虚栄心の強い奴であるから、
私にいい恰好しようと、
会社でのグチや弱みは吐かない
三男はグチを女房に、
打ち明けているらしい
次男は私に向かって、
ボロクソにいいながら、
やっぱり私にしか、
いう相手がないらしい
「野球みたいなもん、
見るのかいな、
トシヨリのくせにハイカラやな」
「何をいうてんねん、
野球なんか、
あんたらの生まれる前からあったんや」
「しかし昔は、
見なんだやないか」
「忙がしかったからや
このヒマなときに、
せえだい楽しんで野球見さして頂戴
おまけに阪神巨人戦や
その上、
中西監督になって初めての試合や
私ゃ、掛布にラインバックに、
小林がヒイキで、
今晩どうなるか楽しみや」
「巨人や
阪神みたいなもん、
ヒイキするのん気ちがいじゃ」
「そないいうてなさい
今晩、吠えづらかきなや
中西は気合い入ってはるで」
次男は、
しんからびっくりしたようであった
何が驚くことあろうか
これが一人暮らしの楽しさである
野球ぎらいの人間と住んでいたら、
こういうことは出来ないが、
好試合のときは、
いそいそとテレビを見つつ、
五勺の酒を楽しめるのだ
そういえば、
息子の嫁たちはみな四十代であるが、
野球には興味を示さず、
冷淡である
長男の嫁などは、
「たかがタマ抛りやありませんか
棒をタマにあてるなんて、
バカげた遊びですわ
無意味ですわ」
というが、
人生で無意味でないものがあろうか、
人生はすべて無意味なのだ
三男の嫁にいたっては、
大学出の理屈言いで、
「ルールに必然的根拠がなくて、
納得いかない」
といっていたが、
そもそもゲームのルールなんて、
そういうものではないか
女だから野球ぎらい、
ということではないらしく、
細木っ老人も、
男のくせに野球には関心がない
尤もこの老人は、
半分ボケているような人だから、
すべてにわたって関心がなくなりかけている
そこへくると、
私の叔母などは、
今でもテレビで高校野球を見るのを、
楽しんでいる
この人は、
亡母の末妹で、
私とはあまり年が離れていない
といっても、
もう九十である
いまだに元気で、
「野球野球いうから、
何やと思うたら、
ベースボールのことかいな」
という婆さんである
(次回へ)
・長男の嫁も、
長男にいいつけられてのことに、
ちがいない、
電話をしてくる
これも儀礼的というか、
義務感というか、
電話というものは、
気分がよく伝わるものである
立て板に水で、
「治子ですけど、
お姑さん、いかがですか、
お元気?
お変りもなく?
何かありましたら、
お手伝いに
あがりますからご遠慮なく」
とこっちのいうことも聞かず、
電話を切ってしまう
この分では私がミイラになっても、
「お変りもなく?
何かありましたらご遠慮なく」」
とやってるかもしれない
ま、しかし、
ミイラぐらいでは「何かある」の内へは、
数えないのではないか、
自分の子供の指に、
トゲでも刺さったら、
大騒ぎであろうが、
私がミイラになったくらいでは、
驚かないかも・・・
そんなことを考えて、
私は一人の朝食をにやにやしつつ、
とっている
ところでおよそ、
電話をしないのは三男である
この子は昔から甘えたで、
自分のことしか考えない、
わがまま末っ子であったが、
今は鬢が白くなってもう四十五である
銀行員になって、
支店長だのといばっているが、
銀行以外の世界は知らないのだから、
大きな図体をした井の中の蛙である
女房も銀行員の娘をもらった
銀行は閨閥もあるらしくて、
まだ中学生の息子も、
ゆくゆくは銀行員にするらしい
銀行のマークが服を着たような、
一家である
この息子は女房に巻かれっぱなしで、
女房で充足されているらしく、
私のことは思い出しもしない
いつもは忘れているが、
思い出すと腹が立ってくる
そういえば、
正月に来たきり、
盆暮れの挨拶だけやな、
と思うとむらむらして、
こっちから電話をかけてやる
「あんた、
ちっとはな、
電話するもんやで
七十六のお袋が、
一人でどないしとるやろか、
とか、
誰もいてへんところで、
引っくりかえってるのやないか、
とは考えたことないのかいな
七十六のお袋、
一人で住まわして、
世間の聞こえも悪い、
と思わへんのか」
三男は私の見幕にびっくりして、
「いや・・・そら、
まあ、いつも無意識に、
深層心理で
思い出しとるけどやな、
まあ、お袋は丈夫やし・・・」
「丈夫いうたかて、
私もトシがトシやから、
どうなるかわかりません、
今日丈夫でも、
明日はコロッと、
という場合もあるかもしれへん、
怨めしや・・・
と箕面のほうへ手を出して」
箕面というのは、
三男が家を建てた町である
「そんなこというなよ」
三男は厚かましい男で、
「どうせなら、
西宮や豊中へ向いてほしわ」
西宮は長男、
豊中は次男のいる町である
「なんでミイラになって、
僕とこ向くねん、
向き先はなんぼでもあるやないか、
兄貴らのほうへ向いて・・・」
「そう思うのやったら、
たまには、
『どないしてるねん』
とひとことぐらいは声かけなさい」
「わかってる、
けど忙しいてな、
何しろもう・・・」
「誰でも忙しいわ、
そこを電話してくるのが、
『可愛げ』というもんやないかいな、
建て増しするやら、
庭作るやらいうときは、
私のヘソクリあてにするくせに
よろし、
もうわかりました
私ゃ一人でミイラになって、
箕面のほう向いて、
怨めしや・・・」
「かんにんや、
お母チャン」
四十五の末息子は、
思わず昔ながらの言い方で、
悲鳴をあげるのである
息子たちは三人寄ると、
「どや
やりにくいなあ
この頃のお袋」
「電話せなんだら、
せなんだいうて怒りよるし」
「ミイラ、ミイラで、
いやがらせしよる」
「電話したらしたで、
トシヨリ扱いする、
いうて怒るし、
心配したら、
大きなお世話や、
家の中でジーっとしとったら、
恍惚の人になってしまう、
といいたい放題」
「どないせえ、ちゅうねん」
「怖いもんなしの境地や
気ぃ荒うなった」
「ワシらより長生きするのん、
ちゃうか」
と恐慌しているようである
ところでおかしいのは、
次男の電話である
この男は鉄鋼会社に入って、
いまは部長たらになっている
四十八歳で部長というのは、
この会社では出世しているほうである、
と息子が来ていうが、
本当かどうか分かるもんか
この男、
息子たちの中ではいちば欲深で、
口を開けば、
「おばあちゃん、
株券ちゃんとしもうてるか、
判コと通帳は別々にしいや」
ばかりいう
私ゃまだモウロクしていないんだよ
「銀行の貸金庫へ、
ちゃんと入れてあります
ややこしいのは手元に、
おいていませんよ」
というと、
「いっぺん、
一緒に行って見とこか、
もしものことがあっても、
誰もわからん、
ということになったら困る
株はどことどこの奴や?」
と私の財産管理ばかり、
気にしている
そうして口を開けば、
私をやりこめ、
電話でしゃべっていて、
いちばん腹が立つのはこの次男である
ところが、
この息子が私のところへ、
いちばんよく顔を出す
そして何をいうかといえば、
「ウチの常務なあ、
この前、コロッといった前の部長の、
嫁はんの親や
あいつ、
ほんまにいやらしい奴やで」
と上司のワルクチをいう
会社の内紛を、
私にこまごまとしゃべる
よって私は、
次男の会社の内情やら、
人間地図やらを、
あたまの中に入れてしまった
次男はときに、
会社の創立記念日パーティの、
写真なんぞ持ってきて、
「ほら、
これが例の常務や
こっちは専務や
あ、こいつが社長の息子
副社長ということになったぁるけど、
ろくに物知らへん
遊び歩いて接待ゴルフばかり、
しとる
その代わり、
女房はええとこからもろとるねん」
などと示して、
私に見ることを強制する
そんなもん、
見たってしょうがないのに、
禿げあたまや白髪の、
変哲もない紳士の写真を見せ、
自分と同質の認識を持て、
と強いるのだ
五十近くもなって、
じつにけったいな息子である
(次回へ)
・「おかげさまで、
無事、お式も済みましたのよ」
と竹下夫人が電話をかけてきた
以前、
私が仲に立って話をした、
知人の息子の結婚式である
その相手はぼてれんのまま、
結婚式を挙げた
それは別にかまわないが、
しかしなんだってまあ、
女は子供を生みたがるのかしらねえ
「なぜそう生みたがるのでしょ」
と私がいうと、
「そりゃ、神さまの授かりものですから」
とふしんそうに答える
「授かったらみな、
生まなきゃならない、
ってもんじゃないでしょう」
「いえ、
できたものは生まなきゃ、あなた・・・
子供を生むのは女の本能ですから」
竹下夫人は私より年下であるが、
私を訓戒する口調になった
「本能、ねえ・・・」
私はいつも面倒くさいので、
竹下夫人の電話は敬遠して、
用件だけですませるのであるが、
今日はつい、日頃、
思っていることをいってしまった
「私ねえ、
この頃の子供のしつけの悪い、
なまいきなのを見ておりますと、
こういう出来の悪いバカな子供を、
いっぱい殖やしてはいけないんじゃないか、
と
女の本能を甘やかして、
生み続けさせることはないんじゃないか、
と
子供を生むという本能を、
だらしなく放置しといて、
いいのかしらと考えますのよ」
「奥さま、
何てまあ、きついことを
どうもそういう、
きついご意見は、
私には理解できませんわ」
竹下夫人は語調をあらため、
とみに熱心になりいうのである
「わるいことは申しません
奥さま、
ちょっと荒気になって、
いらっしゃるようですわ
どうぞ『天地生成会』に、
お入りなさいませ
現神さまのおかげで、
気が和んでおだやかになられますわ
安心が得られますわ
奥さまのきつい荒気が、
きっとおさまります、
こう申しちゃなんでございますが、
おトシを召して、
お一人でお暮しになっていると、
おのずから荒気におなりになるんじゃ、
ないでしょうか・・・」
荒気なんていわれてしまった
竹下夫人ばかりではない、
息子たちもそう思っているらしい
私はべつに荒気になってる、
とは思わない
ごく普通の気性だと思っている
ただ向こうが私の気を、
荒立てるようなことをいうからだ
一ばんよく、
私に電話するのは長男である
「いつかけても、
おらへんのやな」
といつかけても、
不機嫌な尊大な声を出す
「年よりは年よりらしゅう、
ちと、家に落ち着いていなはれ」
これが私にカチンとくるのだ
長男はふた言目には私のことを、
「年より」と連発するが、
いくら息子だって、
いっていいことと悪いこととある
私ゃ自分では、
「トシヨリ」と思っていない
目も耳も達者、
歯も文句なく、
内臓もすこやか、
四肢も故障なく、
肌もつややか、
と自分では思っている
何しろ、おしろいだってよくのるのだ
髪は染めるけれど、
それだってブラウンに、
きれいに染め上がり、
身なりだってかなり道楽しつくして、
ハイカラ好みであるのだ
そうして、
海の見えるマンションに一人住んで、
絹のラベンダー色の部屋着を着て、
爪にオリーブ油をすりこみ、
あと鹿革でよく磨いておく、
といった日常、
毎日機嫌よく優雅に暮らしている、
七十六歳の美女に向かって、
「トシヨリはトシヨリらしゅう」
とは何だっ!
トシヨリ、
老人、
老婆、
老醜、
老残、
老衰、
おいぼれ、
そういうことばをやたら、
発することはつつしんでもらいたい
いまはやりの、
熟年ということばを使ってもらう
長男のいう「年より」には、
「年より」らしい概念があって、
そこからはずれると、
咎め立てするようである
つまり、
「年よりは家に落ち着いているもの」
という概念が長男にはあるのだ
「いつかけてもおらへん」
と電話で怒るのはそのせいらしい
大きなお世話だ
家にくすぶっていると、
恍惚の人に近づくのが関の山、
足腰の立つあいだは、
外を出歩いたほうがよい
それがいちばんの運動である
我々の世代であると、
美しく身じまいし、
日に焼けぬよう首にはスカーフ、
レースの手袋をはめて町へ出る
これが大変な運動になる
駅の階段の昇り降り、
バスの乗り降り、
町の人々の視線にさらされる、
すべて緊張を強いられるので、
これが最も適切な美容法であり、
健康法である
五十二の長男は、
いうこと考えることは、
私よりずっと古くさい
そういう古くさい感覚で、
よく繊維品の商いができるもんだ、
と思うが、
私は商売のことに、
口出しすまいと思っている
今までさんざん働いてきたのだから、
浮世の苦労はもうご勘弁いただこう
私はこの頃、
お習字の先生にすすめられて、
習字教室を週に二度、
受け持たされている
市民会館であるが、
四、五十人の婦人が来るので、
これもかなり忙しい
その関係で、
筆や墨の店、紙屋、表装屋へ行ったり、
まさに長男にいわせれば、
「遊び歩いている」
状態である
とてものことに、
家に落ち着いている、
ことなんか出来はしない
長男が電話するのは、
私が家に年よりらしく、
落ち着いているかどうかを、
たしかめるためではないらしい
「誰も知らん間に、
コロッといかれでもしたら、
風わるいよってな」
と外観を気にする男である
「七十六のお袋を一人おいとる、
いうたら世間の聞こえも恥ずかしい
そやから、一緒に住も、
いうてんのに」
「やれやれ、
そんな窮屈なこと、
よういせんわ
誰も知らん間にコロッといく、
いうのもさばさばして、
ええやないかいな
社長母堂、ミイラで発見される、
いうのも面白いやろ」
と私がいうと、
「笑う気もせんわ
ええかげんにしなはれ
そっちは面白いやろけど、
こっちは大迷惑や
親ほったらかした、
いうて後ろ指さされまっしゃないか
もう人前歩かれへん」
とむくれて、
電話を切ってしまった
(次回へ)