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天満村寺尾九兵衛(20)春清が金毘羅宮へ元禄7年に石燈籠を奉献した

2024-11-10 10:16:06 | 趣味歴史推論
 五代寺尾九兵衛春清は、元禄4年別子銅山開坑時の天満村大庄屋であり、歴代当主では最重要人物である。しかしその働きについて、古文書や記録の中にはほとんど見つからない。しかし銅山開坑から、粗銅の積出港が新居浜に代わる元禄15年までの12年間、天満村の役割を十分に発揮したことは間違いない。大きな事故や事件があれば記録に残るだろうが、それがないということは物流経営が上手くなされていたことを示している。記録がないので、春清らの働きを遺物によって見ていきたい。
 春清が金毘羅宮へ奉献した石灯籠が、琴平町公会堂の前庭に残っている。この公会堂は、金刀比羅宮の石段の始まりの左手約100m離れた所に昭和9年に建造された。→写1 
石燈籠の旧設置位置は不明であるが、金毘羅宮へ奉納されたことは間違いないとのことである。1)
 高さ{(宝珠+請花+火袋)88cm+(火袋台+竿+台)108cm=}196cm、円形の竿と火袋台はしっかりしており、刻字もはっきり読み取れる。→写2、写3
石燈籠(1694)
  元禄七戌年   予州宇摩郡天満村
  奉寄進        寺尾氏春清
  十月吉日


検討と考察
1. 銘が彫られた竿石とその上の火袋台石は花崗岩であるが、火袋は竿石と石材質が異なり、地震などで破損したので、別の石燈籠の火袋を取り込んだと思われる。台石は円形で火袋台石の四角形と異なりデザインも異なるが、石材質は同じ様なので本来のものだろうか。宝珠石(玉石)、請花、笠石も、本来のものかは判別し難い。銘が彫られた竿石とその上の火袋台石のデザインは、三代成清が天満村八幡宮へ延宝9年(1681)寄進した石燈籠に酷似している。2)成清の石灯籠も材質は花崗岩で、下台も含めて180cm(6尺)であったので、大きさもほぼ同じである。
2. 元禄7年は、金毘羅の石燈籠では7番目に古く、それまでの6対は全て高松藩主松平頼重寄進のものであった。3)この石燈籠は、大名以外では最も古く、讃岐国以外では、初めての奉納物である。1)
3. 寺尾九兵衛春清がなぜこの時期に寄進したのか。  
 別子銅山は開坑以降急激に産出量を増やしていたが、元禄7年4月に大火災があり132人が焼け死んだ。その半年後に奉献していることから推測すると、別子銅山の復興と天満村と寺尾家の無事を祈願したのであろう。
4. なぜ金毘羅宮に寄進したのか。
 元禄時代の金毘羅宮はどんな様子であったのか、金毘羅大権現とはなにかを調べ始めたら、金刀比羅宮(現在は神社であり、その正式な名称)の歴史は、修験道・仏教・神道が絡み合っており、権力争いもあり、非常に複雑であることを知った。筆者は、史料に基づき論じている池内敏樹のライブドアブログ「瀬戸の海から」を妥当なものと考えたので、そこから主に引用させていただいた。4)5)
・「正徳5年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納」
これが、金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりとのことである。
 塩飽諸島は江戸時代当初から、幕府領であり、官米の廻船操業で繁栄した。丸尾家は瀬戸内随一の豪商とうたわれた。寛文12年(1672)河村瑞賢が出羽酒田より江戸に官米を廻送し西回り航路を開く時にその任にあたったのが塩飽の廻船である。延宝3年(1675)には牛島だけで28名の船持が75艘、総積石数48750石に及ぶ廻船を持っていた。正徳3年(1713)には塩飽諸島に472艘の廻船があり、そのうち200石以上1500石積までのものが112艘であった。6) その華々しい塩飽牛島の丸尾家が奉納したのは正徳5年(1715)と寺尾九兵衛の奉納より後なのである。元禄時代に金毘羅大権現が海上守護神、船の神として広く信仰されているのであれば、象頭山に近い塩飽諸島の廻船問屋から燈籠などの奉献が数多くなされていてもよいはずである。塩飽の船人は住吉神社を古くから信仰していたので乗り換えなかったのである。
 そうすると、寺尾九兵衛が金毘羅大権現を海上守護神として信仰し奉献した初めての人であるといえるのではないか。特に、寺尾九兵衛の後の青銅燈籠奉献は、廻船操業で海の安全と繁栄を願ったからであろう。
塩田康夫によれば、銅廻船の天満浦から大坂への航路は、天満浦→箱浦→塩飽本島の泊(とまり)→牛窓→室津→明石→大坂と考えられる。7) 箱浦から泊の間の船上から象頭山が見えたので、金毘羅宮へ奉献したのだろうか。

まとめ
1. 五代寺尾九兵衛春清が金毘羅宮へ元禄7年に石燈籠を奉献した。
2. 大名以外では最も古く、讃岐国以外では、初めての奉納物である。
3. 春清は金毘羅大権現を海上守護神として奉献した初めての人ではないか。


注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p346「印南敏秀 境外(旧領内)の石燈籠」(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション 
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(13)天満神社の鳥居と三代成清寄進の石燈籠」(2024.9.22)
3. 松平頼重は讃岐国高松藩の初代藩主(元和8年~元禄8年(1622~1695))で徳川光圀の同母兄である。6対の石燈籠は寛文8年-延宝3年(1668-1675)に奉献された。
4. 池内敏樹ライブドアブログ「瀬戸の島から」>金毘羅大権現形成史
5. 金刀比羅宮の歴史(ブログ「瀬戸の島から」を参考にして作成した筆者のメモである)
・金毘羅大権現の一番古い史料とされる金毘羅堂の棟札(元亀4年=天正元年(1573)記之)によれば、「真言宗象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とある。すなわち宥雅は、象頭山に金毘羅神という「流行神」(はやりがみ)を招来して、この山を盛大にすることを目論んだ。しかし追われ歴史から抹殺された。その後の宥盛らは、歴代藩主の保護を受け、新興勢力の金光院が権勢を高め松尾寺を支配するようになった。慶安元年(1648)に幕府から朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった。そして、神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展した。
・明治元年の神仏分離令により、廃仏毀釈が起こり、本山は全て神社「金刀比羅宮」(祭神は大物主、崇徳帝)となり、真言宗象頭山松尾寺(金毘羅大権現)は、本山から追い出され、域外に残った。
・公式見解では、「金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。」
・「お参り」という大義名分をもつ旅行(個人と団体)「こんぴらまいり」を企画して全国に流行らせ、山と地域を繁栄させた。「お伊勢まいり」と並ぶ。
・金毘羅信仰を全国に広めたのは修験者だったであろう。また民間の金毘羅信仰は、「病気平癒」や「疫病よけ」であり、修験者により祈祷がなされた。ただ修験道としては、石鎚山の方が古く、強かった。民間の金毘羅信仰も元禄以降のことである。
・瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉神社や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになったのは、19世紀になってからであろう。塩飽諸島では、難波の住吉神社を信仰していた。
6. 金毘羅庶民信仰資料集第1巻p42「田村善次郎 金毘羅信仰について」(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和57年 1982) web.国会図書館デジタルコレクション
塩飽の廻船に関する元の文献は「柚木学「近世海運史の研究」(1979)」である。
7. 塩田康夫「海のあらがね道」「山村文化」7号p23(山村研究会 平成9年1997)

写1 琴平町公会堂


写2 春清寄進の石燈籠

写3 石燈籠の竿部拡大 


写4 金刀比羅宮境内変遷図(金毘羅庶民信仰資料集第1巻p20より抜粋)


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