寛永14年(1637年)重税や弾圧に反発した農民やキリスト教徒を主体とする民衆が蜂起した一揆「島原の乱」が発生し、
一揆軍は幕府側の拠点だった富岡城を攻撃しました。
1.富岡城の歴史
1602年、富岡城は関ヶ原の戦い後に天草の領主となった唐津藩の「寺沢広高」により築かれました。
2.富岡城公園案内図
1637年に「天草・島原の乱」が勃発した時、幕府側の拠点として一揆勢から3回の攻撃を受けましたが、唐津藩の必死の守りで城が守られました。
3.出丸と二の丸
乱の終了後天草は山崎家治の領土となり、乱で傷んだ城の修理と守りの強化のため縄張りが拡大され、今に残る「城絵図」に描かれた姿となりました。
4.出丸
西側にやや広い出丸があります。
この頃、江戸幕府は海外列強の侵略を恐れ鎖国政策を進めており、乱を契機に外洋に面した国内最西端の富岡城を重要視したと思われます。
その後、天草は長く天領となり、戸田忠昌の時代1670年に破城とし、その後忠昌は老中にまで登り詰めました。
5.日本の恩人と天草の恩人
二の丸広場に天草回天の碑があります。
日本の恩人として「勝海舟」と「頼山陽」の2人。
勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練中に富岡にやってきました。
頼山陽は富岡にやってきて詩「泊天草洋」を詠みました。
天草の恩人として天草初代代官「鈴木重成」と兄の「鈴木正三」像があります。
6.東角櫓
東角櫓は現在ワーキングスペースとしても利用されています。
7.二の丸と本丸の入り口
城内を進むと徐々に高度が上がります。
8.神櫓と高麗門
本丸の入り口となっています。
9.島原半島が見える
本丸からは長崎県の島原半島が北に見えます。
劣勢になった一揆勢は富岡城の攻撃をやめ、対岸の島原にあった廃城の「原城」に集合し籠城戦に持ち込みます。
この時の一揆勢の軍勢は3万7千人程度だったといわれています。
今回も残念ながら天候に恵まれず翌日からは雨で、予定の天草一周はできませんでした。
撮影:CANON EOS RP + RF24-105mm F4-7.1 IS STM
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