
盤珪(1622~1693) 播州揖西群浜田村に生まれる 浄土教・密教・禅宗 弟子四百
「不生でおれとすすめて、不生になれとは言わず」 一切の工夫を排して本来の仏心にめざめることだけを強調
私のところでは、そんな時代ものの書き付けなどの詮議はいたさぬ。
これまでに見たり聞いたりした経験に刺激されて、その経験が霊明な仏心に映っている状態、それが念というものでございます。
女性といいますものは、特になにかにつけて、つまらないことに腹を立て、不生の仏心を修羅につくりかえ、愚痴の畜生につくりかえ、欲の餓鬼につくりかえまして、種種様々に流転して迷うわけでございます。
私の言いますのは、この仏心を三毒につくりかえないということは、大変重要なことであるから、ここをよく聞いておいて、不生の仏心をほかのものにつくりかえないように、よほど気をおつけなさい。
「大疑団」 全身がある問題意識そのものとなった状態。(『無門関』第一)
この人間の世界に生まれたのは何のためかと考えますと、仏になるべきために、心と体を得たのです。
遠慮せずに、自由に、平生の言葉で問答して、らちを明けなさい。らちさえあけば、使いやすい平生のことばほど便利なものはないではないですか。
*平成二十八年十二月三十一日抜粋終了。
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