無窓国師(1275~1351) 伊勢の源氏の出身 真言密教から宋禅宗
夢中問答集 上
小乗 自分だけが救われることを求めてする修行の有り方を、利他主義に立つ大乗の側から、くさして呼んだ呼びかた。
しかし、いまだこの真理(密教)を洞察できない人を導くために、現世利益を言うのである。このような手立てを一般仏教にゆだねるゆえに、禅ではひたすらに本分のみを示すのである。
夢中問答集 中
ただかやうなる一切の解会を放下して、放下の処について二六時中猛烈に参究せば、次節到来して本分の大智に契当すべし。
ただこのような一切の考えを放り出して、放り出したところについて、四六時中猛烈に参究するならば、時いたって本当の智慧につき当たるであろう。
最高の修行者は、分割された修行の段階を経ることなく、一挙に基本的な智慧を体得する。古人が「ひととびしていっぺんに如来の領域に入る」と言っているのはこの意味である。『華厳経』にも「初めて発心した時すでに悟っている、など」と言っているのである。
六ハラミツやいろいろな修行の仕方を説き、いろいろな修行の段階を立てるのはすべて中以下の修行者のためにするに過ぎない。
昔、無業国師という人は、一生の間、仏教を学ぶ者の問に答えるについて、ただ「莫妄想」――ぼんやりするな――の一句をもってした。もしこの一句がものにできれば、基本的な智慧の働きが、たちどころに現前するであろう。
莫妄想
――仏教における修行者の程度の中に上中下の三種がある。
初心の行者、若しかやうの心のおこらんときは、我いまだ無上道に相応せざる故に、此の妄想は起れりとしりて、一切放下して直下に参究せば、かならず相応の時節あるべし。
自他の区別を見ないから、是非を言わないのである。
はしりさわいで
問ふ、万事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に万事をなす人ありと申すは、何とかはれることやらん。
答ふ、工夫と申すことは唐土の世俗のことばなり。日本にいとまといへる語に同じ。
いとま=【暇】休みの時の意。「いとまなく海士(あま)のいざりはともしあへり見ゆ」<万3672> 出所:岩波古語辞典
修行の工夫の外に世事はない。
夢中問答集 下
瑞巌和尚は毎日自分で「主人公」と呼びかけては自分で「はい」と返事をし、「めざめていろよ」「はい」「いつなんどきでもだまくらかされてはならんぞ」「はいはい」と、会話をしていた。
『無門関』
「真実は完璧であって、概念の及ばないものである。もともと世界や衆生は存在しない」
『首楞巌経』巻七
日ごろの迷いが忽然として消え失せて、一挙に肝心のところを悟るのを見性成仏というのである。
禅宗においては、ずばり本当のところと合致するのを悟りというのである。仏祖の教えを理解することを悟りというのではない。だから人に示す言葉も、理解されることを目的とするものではない。禅を学ぶものをしてただちに悟らせようとする手段である。
*小玉(下女)を呼んで、あれこれさせるのは若い男に自分を気が付かせるための間接的な方法
――ブッダが一生のあいだに説法された時も、このような手段を用いられた事があるのであろうか。
――禅の眼によって見ると、ブッダが一生のあいだに説かれたことは、すべて小玉を呼ぶ手段である。
一代の所説も、皆な是小玉を呼ぶ手段なり。
*平成二十八年十二月二十八日抜粋終了。
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