先日の土曜日に小川町図書館(小川町の施設で多分一番利用率が高い施設)へ久々に行ってきましたが、ついでに図書館の2階にある資料館を見学してきました。
資料館へ上る階段のところに「一声かけて下さい」(正確には表現は違います。きっと。)と、いった感じの張り紙があったので、職員に声をかけてから、階段を昇っていったんですが、よ~く考えてみると、利用者が少ないため、通常は電気が消されているようでした。なので、一声かけて下さい。と、言うわけです。
まず、資料館を入ると最初に目に付くのが昔(江戸から明治にかけてのころ)の小川町の模型です。上の写真がその模型ですが、丸印が付いている建物が「橋本楼」となっていましたので、多分現在の橋本旅館になるのでしょう。
この辺りは小川川岸と名づけられ、1615年(江戸時代初頭)から明治のころまで、江戸(東京)へ荷物を運ぶ船着場として大変栄えました。(小川のほとんどの人が知っている話ですね)
橋本旅館から推測するに、川岸があったのは現在の扇寿司がある辺りの先だったのではないでしょうか?そういえば、この辺りは川岸なんていう地名が残っていますよね。
ここでちょっと雑学です。
昔小川から江戸までは船で22日間かかり、帰りは12日間かかったようです。(行きに日数がかかったのは多分利根川をさかのぼったためと思われます)
江戸への荷物は松板・杉板・炭・米などで、江戸からの荷物は塩・こま物(どういったもの?)・畳おもてなので、これらの荷物を運んだ高瀬舟は底の平たい浅瀬用の川舟で、米500~600俵が詰め込めたらしいです。(米1俵は約60kgと言われていますので、かなりの量を運べたわけですね)
小川近辺の船着場として、巴川(小川町と茨城町、鉾田町の境を流れ、鉾田町で北浦へそそぐ川)にも1832年に下吉影川岸というのが作られ、園部川同様、江戸への交通網の要となっていたようです。ちなみに巴川は川の形状が巴状になっていたため、そう呼ばれるようになったようです。
その他資料館の様子は以下の写真のとおりです。

小川町内で発見された土器など展示

昔の生活用品などの展示
それほど展示物が多数あるわけではありませんが、小川町の昔を知る上では結構参考になる内容となっておりますので、皆さんも一度見学してみてはいかがですか!ちなみに見学料は無料です。
(自分は今回で2度目でした。)
資料館へ上る階段のところに「一声かけて下さい」(正確には表現は違います。きっと。)と、いった感じの張り紙があったので、職員に声をかけてから、階段を昇っていったんですが、よ~く考えてみると、利用者が少ないため、通常は電気が消されているようでした。なので、一声かけて下さい。と、言うわけです。
まず、資料館を入ると最初に目に付くのが昔(江戸から明治にかけてのころ)の小川町の模型です。上の写真がその模型ですが、丸印が付いている建物が「橋本楼」となっていましたので、多分現在の橋本旅館になるのでしょう。
この辺りは小川川岸と名づけられ、1615年(江戸時代初頭)から明治のころまで、江戸(東京)へ荷物を運ぶ船着場として大変栄えました。(小川のほとんどの人が知っている話ですね)
橋本旅館から推測するに、川岸があったのは現在の扇寿司がある辺りの先だったのではないでしょうか?そういえば、この辺りは川岸なんていう地名が残っていますよね。
ここでちょっと雑学です。
昔小川から江戸までは船で22日間かかり、帰りは12日間かかったようです。(行きに日数がかかったのは多分利根川をさかのぼったためと思われます)
江戸への荷物は松板・杉板・炭・米などで、江戸からの荷物は塩・こま物(どういったもの?)・畳おもてなので、これらの荷物を運んだ高瀬舟は底の平たい浅瀬用の川舟で、米500~600俵が詰め込めたらしいです。(米1俵は約60kgと言われていますので、かなりの量を運べたわけですね)
小川近辺の船着場として、巴川(小川町と茨城町、鉾田町の境を流れ、鉾田町で北浦へそそぐ川)にも1832年に下吉影川岸というのが作られ、園部川同様、江戸への交通網の要となっていたようです。ちなみに巴川は川の形状が巴状になっていたため、そう呼ばれるようになったようです。
その他資料館の様子は以下の写真のとおりです。

小川町内で発見された土器など展示

昔の生活用品などの展示
それほど展示物が多数あるわけではありませんが、小川町の昔を知る上では結構参考になる内容となっておりますので、皆さんも一度見学してみてはいかがですか!ちなみに見学料は無料です。
(自分は今回で2度目でした。)