関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。
中世において日本の支配階級は、荘園を基盤とする公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。権門は喧嘩したり仲良くしたりしながら(相互補完)自分たちの利権を守った。
これだけです。一般には「天皇を中心として権門は結合」と説明されますが、間違いです。少なくとも黒田俊雄氏はそう考えていません。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。ここには「公とは何か」という深い問いが存在します。権門はそれが上皇家であろうと「私的勢力」です。私的勢力のままでは支配の正当性が得られません。そこで「天皇という公認機関=王」を「権門が作る」のです。権門は「自らを公的存在にする機関」を自分で育て上げ、天皇を「公として飾り立て」、「天皇は公だから自分たちは公認された」と主張するわけです。天皇が公だから正当性を得るわけでなく「天皇を公にみせかけている」のが実は権門なのです。これが「みかけの公」であり、「天皇制の詐術」「天皇制のマジック」です。現代でも政府は何かというと第三者機関を作り、自らの政策に正当性を付与します。この第三者機関にあたるのが、天皇であり天皇システムです。
戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として(日中・太平洋戦争の)責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。第三者機関として東條ら軍主導の政策を「公認」しながら、自分は弱き第三者機関だから責任はないとする、この態度は間違っていると黒田俊雄氏は主張したのです。(ちなみに黒田俊雄氏の恩師は皇国史観の代表的論者である平泉澄で、権門体制論と平泉の史観の共通性を指摘する論者もいます。たしかに私のいう「みかけの正当性」を考慮せず単純に「天皇が権門の中心」としてしまうと、権門体制論は皇国史観そのものにも見えてくるのです。その意味では危険な理論です。実際、嬉々として平泉史学の復権を主張する方もいます)
天皇制への漠然とした精神的呪縛がある限り、歴史学がまた「非科学的・神話的」なものに歪められる恐れがある。天皇制の真実を解明し、その神秘性をはく奪しないといけない。その思いが「権門体制論」の提唱につながるのです。
黒田俊雄氏はマルクス主義者でした。マルクス主義者がなぜ一見すると、皇国史観と似た構造をもつ「権門体制論」を唱えたのか。
私の疑問はそこであり、そこから権門体制論を読んでいきました。そしてなんとか「黒田俊雄氏の真意」に近づくことができたと考えています。日本史学は政治論であることを免れない。「公平で中立」ということは日本史学ではありえない。だから論者は自分の政治性を絶えず点検し、「なるべく公正に論じよう」とするしかない。黒田俊雄氏の鋭い政治性を前に、私はそんなことを考えます。黒田俊雄氏の文章が心地よいのは、黒田氏が自らのあふれるばかりの政治性を意識しながら、それでも「できる限り公正に叙述しよう」と苦闘している様が読み取れるからです。
以上。
中世において日本の支配階級は、荘園を基盤とする公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。権門は喧嘩したり仲良くしたりしながら(相互補完)自分たちの利権を守った。
これだけです。一般には「天皇を中心として権門は結合」と説明されますが、間違いです。少なくとも黒田俊雄氏はそう考えていません。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。ここには「公とは何か」という深い問いが存在します。権門はそれが上皇家であろうと「私的勢力」です。私的勢力のままでは支配の正当性が得られません。そこで「天皇という公認機関=王」を「権門が作る」のです。権門は「自らを公的存在にする機関」を自分で育て上げ、天皇を「公として飾り立て」、「天皇は公だから自分たちは公認された」と主張するわけです。天皇が公だから正当性を得るわけでなく「天皇を公にみせかけている」のが実は権門なのです。これが「みかけの公」であり、「天皇制の詐術」「天皇制のマジック」です。現代でも政府は何かというと第三者機関を作り、自らの政策に正当性を付与します。この第三者機関にあたるのが、天皇であり天皇システムです。
戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として(日中・太平洋戦争の)責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。第三者機関として東條ら軍主導の政策を「公認」しながら、自分は弱き第三者機関だから責任はないとする、この態度は間違っていると黒田俊雄氏は主張したのです。(ちなみに黒田俊雄氏の恩師は皇国史観の代表的論者である平泉澄で、権門体制論と平泉の史観の共通性を指摘する論者もいます。たしかに私のいう「みかけの正当性」を考慮せず単純に「天皇が権門の中心」としてしまうと、権門体制論は皇国史観そのものにも見えてくるのです。その意味では危険な理論です。実際、嬉々として平泉史学の復権を主張する方もいます)
天皇制への漠然とした精神的呪縛がある限り、歴史学がまた「非科学的・神話的」なものに歪められる恐れがある。天皇制の真実を解明し、その神秘性をはく奪しないといけない。その思いが「権門体制論」の提唱につながるのです。
黒田俊雄氏はマルクス主義者でした。マルクス主義者がなぜ一見すると、皇国史観と似た構造をもつ「権門体制論」を唱えたのか。
私の疑問はそこであり、そこから権門体制論を読んでいきました。そしてなんとか「黒田俊雄氏の真意」に近づくことができたと考えています。日本史学は政治論であることを免れない。「公平で中立」ということは日本史学ではありえない。だから論者は自分の政治性を絶えず点検し、「なるべく公正に論じよう」とするしかない。黒田俊雄氏の鋭い政治性を前に、私はそんなことを考えます。黒田俊雄氏の文章が心地よいのは、黒田氏が自らのあふれるばかりの政治性を意識しながら、それでも「できる限り公正に叙述しよう」と苦闘している様が読み取れるからです。
以上。
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