織田信長と正親町天皇が「対立していた」という考えが「一種のブーム」になったのは1990年代のようです。私が知らないわけです。仕事が一番忙しい時期で、歴史の本を読んでいる時間はありませんでした。「麒麟がくる」の信長も、最初は大層天皇好きだったのですが、「蘭奢待の一件」で急に天皇との関係が冷めたと描かれました。「対立的」に描かれていたとして良いでしょう。
・蘭奢待切り取り、、、正親町帝は信長からおすそ分けされた蘭奢待を公家に配り「香りをお楽しみあれ」と書いている。少しも対立していない。毛利に送ったとして、当時の毛利は信長と敵対していないので「敵に送った」ことにならない。
・信長が譲位を迫った、、、「譲位ができるのはうれしい限り」という正親町帝の「自筆の手紙」が残っている(一回目の譲位問題の時)。譲位は朝廷の「悲願」であったが、儀式に莫大な費用がかかるため、武家(援助者)の支援がなければできなかった。
ということでこの二件で「対立があった」というのは無理です。なら全く対立がなく「どこまでも仲良し」かというと違います。寺社関係で天皇が下した裁断について、信長が苦情を言った事実があります。(絹衣相論、興福寺別当職相論)また土地問題で天皇が信長に「どうにかしてくれ」と言った事実もあります。信長の家臣が土地を横領したという苦情です。
これらを「苦情ではなく対立だ」とするなら対立ですが、根本的な対立とはほど遠いものです。信長の苦情は誠仁親王が間に立って解決します。天皇の苦情は信長がしかるべき処理をしました。
このあたりの書き方が実に難しいところで、「対立していた」と考える方にとっては、「苦情」も対立を補強する「史実」となります。
1990年代の「対立説」はさらに「対立があった。信長は将軍位を望んだが拒否された。正親町天皇は信長に勝利した」と続きます。「天皇権威の浮上」を言いたかったわけですが、その後の実証的な研究によって今の歴史学者は「ほぼ」否定しています。
堀新さんは「公武結合王権論」を唱えていて、これが日本史学のスタンダードになりつつあるようです。もちろん仮説ですから全面賛成ではなく「おおむね正しい」と書く学者が多いように感じます。
それでも「残された疑問」はあります。信長は官を辞退したあと、二位という「位」は維持するものの、官につきません。朝廷とは距離をとっているように見えます。これは「距離」であって対立とは言えないものの、どう考えたらいいのかとなります。「信長の政権構想」が分かりにくいのです。
私の意見
私も天皇朝廷との「根本的な対立」はなかったと考えています。「根本的な対立」とは「足利義昭のように武力を持って争う」「根にもって非難の応酬をする」「陰で積極的に足を引っ張る」と言った関係です。「非難の応酬」、信長と信玄の間に交わされた「文句の言い合い」を想定しています。
そもそも「天皇、朝廷に対立するほどの実力」はありませんでした。儀式や寺社関係の裁判は行うものの、いわゆる政治は行いません。行う経済力、従わせる武力がありません。天皇領ですら横領されていた時代です。また寺社関係の裁定においてはしばしば不公平な結論が出て、それが信長の苦情のもとになるのです。「公正」という姿勢自体、天皇にも公家にもなかったようです。さらに公家が京都から避難して京にいないこともしばしばです。麒麟がくる、に出てきた三条西さんなどは、晩年のほとんどの時期を今川のもとで暮らしていました。
東大の金子拓さんは「史料の専門家」ですが、本の中でこう書いています。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」
上記の本は信長論としてもおもしろいのですが、「当時の天皇の実態」を知るにも大変参考になる本です。
政治をする実力は「公儀力」とでも言うべきものです。土地や利権を調整分配し、その裁定に従わせる力です。これは朝廷単独では武力がないのでむろん持ちえません。しかし武家単独でも持ちえない、そう考えるのが「公武結合王権論」です。では何故持ちえないのか。そこが実は私にはどうも分かりません。分からないので、考えています。
・蘭奢待切り取り、、、正親町帝は信長からおすそ分けされた蘭奢待を公家に配り「香りをお楽しみあれ」と書いている。少しも対立していない。毛利に送ったとして、当時の毛利は信長と敵対していないので「敵に送った」ことにならない。
・信長が譲位を迫った、、、「譲位ができるのはうれしい限り」という正親町帝の「自筆の手紙」が残っている(一回目の譲位問題の時)。譲位は朝廷の「悲願」であったが、儀式に莫大な費用がかかるため、武家(援助者)の支援がなければできなかった。
ということでこの二件で「対立があった」というのは無理です。なら全く対立がなく「どこまでも仲良し」かというと違います。寺社関係で天皇が下した裁断について、信長が苦情を言った事実があります。(絹衣相論、興福寺別当職相論)また土地問題で天皇が信長に「どうにかしてくれ」と言った事実もあります。信長の家臣が土地を横領したという苦情です。
これらを「苦情ではなく対立だ」とするなら対立ですが、根本的な対立とはほど遠いものです。信長の苦情は誠仁親王が間に立って解決します。天皇の苦情は信長がしかるべき処理をしました。
このあたりの書き方が実に難しいところで、「対立していた」と考える方にとっては、「苦情」も対立を補強する「史実」となります。
1990年代の「対立説」はさらに「対立があった。信長は将軍位を望んだが拒否された。正親町天皇は信長に勝利した」と続きます。「天皇権威の浮上」を言いたかったわけですが、その後の実証的な研究によって今の歴史学者は「ほぼ」否定しています。
堀新さんは「公武結合王権論」を唱えていて、これが日本史学のスタンダードになりつつあるようです。もちろん仮説ですから全面賛成ではなく「おおむね正しい」と書く学者が多いように感じます。
それでも「残された疑問」はあります。信長は官を辞退したあと、二位という「位」は維持するものの、官につきません。朝廷とは距離をとっているように見えます。これは「距離」であって対立とは言えないものの、どう考えたらいいのかとなります。「信長の政権構想」が分かりにくいのです。
私の意見
私も天皇朝廷との「根本的な対立」はなかったと考えています。「根本的な対立」とは「足利義昭のように武力を持って争う」「根にもって非難の応酬をする」「陰で積極的に足を引っ張る」と言った関係です。「非難の応酬」、信長と信玄の間に交わされた「文句の言い合い」を想定しています。
そもそも「天皇、朝廷に対立するほどの実力」はありませんでした。儀式や寺社関係の裁判は行うものの、いわゆる政治は行いません。行う経済力、従わせる武力がありません。天皇領ですら横領されていた時代です。また寺社関係の裁定においてはしばしば不公平な結論が出て、それが信長の苦情のもとになるのです。「公正」という姿勢自体、天皇にも公家にもなかったようです。さらに公家が京都から避難して京にいないこともしばしばです。麒麟がくる、に出てきた三条西さんなどは、晩年のほとんどの時期を今川のもとで暮らしていました。
東大の金子拓さんは「史料の専門家」ですが、本の中でこう書いています。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」
上記の本は信長論としてもおもしろいのですが、「当時の天皇の実態」を知るにも大変参考になる本です。
政治をする実力は「公儀力」とでも言うべきものです。土地や利権を調整分配し、その裁定に従わせる力です。これは朝廷単独では武力がないのでむろん持ちえません。しかし武家単独でも持ちえない、そう考えるのが「公武結合王権論」です。では何故持ちえないのか。そこが実は私にはどうも分かりません。分からないので、考えています。
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