「鎌倉殿の13人」、どうやらすでに「どうする義時」じゃないかという声が出ています。義時はやがて「天下をとったような」感じになりますが、それは最初から狙っていたわけでなく、自分と自分の家族や仲間、誇りを守ろうと、その時々で判断していたら、「いつのまにか天下をとったような感じ」になってしまった。こうなる可能性が大です。
そして次の大河は「どうする家康」です。家康は信長が生きている時代、三河、遠江を支配する「信長配下の大名」でした。すでに対等ではなかったのです。武田滅亡後、駿河をもらいますが、それでも信長の支配領土とは格段の差があります。「天下を狙っている」とはどうしても思えない。本能寺の後、秀吉と対立します。この段階の家康の意識は分かりません。やったことは旧武田領土の奪い合いです。しかし結局は秀吉に臣従します。北条が滅んだ後、江戸に移される。自由に領土を移せる、これが天下人の大きな条件で、この時、秀吉は絶対的な力を誇示しました。家康は秀吉が「日本統一」にまい進し、それを実現した姿を見て、「こんなことが可能なんだ」「だったら僕にもできるかも知れない」と考えたかも知れません。
だから「どうする家康」は大河として成立可能です。最初から天下統一を狙っていたわけではないからです。
一方織田信長はどうでしょう。これがいかにも「分からない」のです。最近は「最初は全く日本統一など狙っていなかった。領土が拡大するにつれ、欲が出てきた」という説がよく言われますが、学説は変化しますから、まだ固まったわけではありません。
信長は日本統一など狙っていなかった説を、史料批判に基づいて唱えるのが東大の金子拓さんです。「もし狙ったとしても、四国攻め、つまり本能寺の変段階じゃないか」ということです。金子さんは「奇説を持ち出して注目をひこう」という方ではなく、その研究態度は堅実そのものです。金子説では「信長は天下静謐を考えていた」「天下である畿内と美濃、尾張ぐらいが静謐な状態ならいい」と考えていた。ところが周りの大名が信長を恐れ、火の粉が降りかかってきた。防衛と「静謐」の為に戦っていたら、いつの間にか領土が拡大していった。そこで本能寺の年ぐらいに初めて「あれ、日本統一可能かな」と考えた、となります。
なお「天下静謐」を「天皇の平和」などと読み替える人がいますが、それは誤読でしょう。金子説では「天下静謐」はもっと大きな理念で、「天皇・朝廷さえもその理念の下にいる」となるのです。これは相論における寺社に対する天皇の判断について「定見を欠く」と抗議して修正させていること。さらにこの時代の朝廷や天皇の判断が基本的に定見を欠き、自分たちの都合によって判断し「しかもそれをおかしいとも思っていなかった」とする金子さんの「資料に基づく認識」のゆえです。「天下静謐に反するとすれば天皇とて容赦しなかった」というように説明なさっています。おそらく天皇個人を容赦しないという意味で、システムとしての天皇制を容赦しないという意味ではないと思います。
以下は私の平凡極まる意見ですが、信長は「天下静謐」にしろ「天下布武」にせよ、なにか目的は設定していたと思います。その目的を達成するために「朝廷」「天皇」は必要だと考えた。例えば幕府構想を持っていたと仮定しても、「権威、正統性付与の機関」として「天皇」は必要だった。だから残す必要を感じていたと思います。しかし信長の最終目標について歴史学の定説はありません。
さて、この金子説を採用するなら、大河「どうする信長」は可能となります。信長だって「その時その時で判断した。結果領土が天下人並みになってしまった」というわけです。そしてNHKは、最近この金子説を「推して」います。いままでさんざん魔王にしてきたのに(笑)
私は「どうする信長」作成を期待しています。なぜって金子説が「検証される」ことになるからです。実は私は色々疑問はあるのです。歴史学者さんに検証してもらいたい説の第一が金子説です。最後になりますが、私は金子氏の仕事に対し、大きなリスペクトを感じています。
そして次の大河は「どうする家康」です。家康は信長が生きている時代、三河、遠江を支配する「信長配下の大名」でした。すでに対等ではなかったのです。武田滅亡後、駿河をもらいますが、それでも信長の支配領土とは格段の差があります。「天下を狙っている」とはどうしても思えない。本能寺の後、秀吉と対立します。この段階の家康の意識は分かりません。やったことは旧武田領土の奪い合いです。しかし結局は秀吉に臣従します。北条が滅んだ後、江戸に移される。自由に領土を移せる、これが天下人の大きな条件で、この時、秀吉は絶対的な力を誇示しました。家康は秀吉が「日本統一」にまい進し、それを実現した姿を見て、「こんなことが可能なんだ」「だったら僕にもできるかも知れない」と考えたかも知れません。
だから「どうする家康」は大河として成立可能です。最初から天下統一を狙っていたわけではないからです。
一方織田信長はどうでしょう。これがいかにも「分からない」のです。最近は「最初は全く日本統一など狙っていなかった。領土が拡大するにつれ、欲が出てきた」という説がよく言われますが、学説は変化しますから、まだ固まったわけではありません。
信長は日本統一など狙っていなかった説を、史料批判に基づいて唱えるのが東大の金子拓さんです。「もし狙ったとしても、四国攻め、つまり本能寺の変段階じゃないか」ということです。金子さんは「奇説を持ち出して注目をひこう」という方ではなく、その研究態度は堅実そのものです。金子説では「信長は天下静謐を考えていた」「天下である畿内と美濃、尾張ぐらいが静謐な状態ならいい」と考えていた。ところが周りの大名が信長を恐れ、火の粉が降りかかってきた。防衛と「静謐」の為に戦っていたら、いつの間にか領土が拡大していった。そこで本能寺の年ぐらいに初めて「あれ、日本統一可能かな」と考えた、となります。
なお「天下静謐」を「天皇の平和」などと読み替える人がいますが、それは誤読でしょう。金子説では「天下静謐」はもっと大きな理念で、「天皇・朝廷さえもその理念の下にいる」となるのです。これは相論における寺社に対する天皇の判断について「定見を欠く」と抗議して修正させていること。さらにこの時代の朝廷や天皇の判断が基本的に定見を欠き、自分たちの都合によって判断し「しかもそれをおかしいとも思っていなかった」とする金子さんの「資料に基づく認識」のゆえです。「天下静謐に反するとすれば天皇とて容赦しなかった」というように説明なさっています。おそらく天皇個人を容赦しないという意味で、システムとしての天皇制を容赦しないという意味ではないと思います。
以下は私の平凡極まる意見ですが、信長は「天下静謐」にしろ「天下布武」にせよ、なにか目的は設定していたと思います。その目的を達成するために「朝廷」「天皇」は必要だと考えた。例えば幕府構想を持っていたと仮定しても、「権威、正統性付与の機関」として「天皇」は必要だった。だから残す必要を感じていたと思います。しかし信長の最終目標について歴史学の定説はありません。
さて、この金子説を採用するなら、大河「どうする信長」は可能となります。信長だって「その時その時で判断した。結果領土が天下人並みになってしまった」というわけです。そしてNHKは、最近この金子説を「推して」います。いままでさんざん魔王にしてきたのに(笑)
私は「どうする信長」作成を期待しています。なぜって金子説が「検証される」ことになるからです。実は私は色々疑問はあるのです。歴史学者さんに検証してもらいたい説の第一が金子説です。最後になりますが、私は金子氏の仕事に対し、大きなリスペクトを感じています。
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